全方位に喧嘩腰

無駄な有識者が各業界の裏側から流行のトピックス・ニュース・作品・表現について語るブログ

同人誌を原価率で語るな!と主張する同人作家は『読者』を舐めている



校正作業の際にきまってお邪魔する喫茶店があります。
コーヒーは水っぽく、サラダのハムはゴムのよう。
内装は簡素で、寄木細工の床材は洒落ているが、テーブルの間隔のむやみな広さは、
客の少なさも手伝い、閉店間際で損切りをつきつめた空っぽの雑貨屋を思わせる。
「閑静」な恵まれた立地環境を「閑散」と感じさせる、おしなべたセンスの無さ。
感受性の昂ぶりを押さえ、校正段階の加筆欲を相殺してくれる良い店です。

そんなお店の窓際にはいくつかの陶器人形が並んでいます。
私の親指程度しかない小さなその人形たちは、農夫であったり、くまさんであったりと、童話的な風体をもってガラス越しの風景にちょっとしたアクセントを添えてくれる。
「値札」という生活感のアクセントを。

え? これ売り物なの? というのがはじめて見た感想でした。
そう、どの人形の足下からもぴょこっと値札が生えているんです。
実際スタッフセレクトのパワーストーンなどが置いてある店もありますが、どう見てもこの人形は買いたいと思わせるほどのものではない。しかしなるほどよく見みるととぼけた造形に愛嬌を感じなくもない。

これを持ってお会計のときに「この素敵な人形をひとつ」と言えれば洒落ているのでしょうが、ほんとうに素敵なものなら「この人形をゆずっていただけませんか」という言葉が出てきます。値札などなくとも。そもそもなにより別にそこまで素敵じゃない。せいぜいコミュニケーションの手段として買うのはアリですが、商品としてはちょっと……。
値札がついているから、それを商品としてどうかと考えてみましたが、そうでなければ、手にとりさえせず遠くからながめるだけで終わっていたでしょう。

 

 

 

今回のトピックス




今回のトピックスはこれ。
過去にさかのぼっていちばん痛さがにじみでている人を選びました。
いやあ、いかにもtwitterでバズりそうな話題ですねグリッドマン以来二度目)。

とはいえ、これはループ話題です。
別に流行のトピックスでもなんでもない。
自費出版者の人たちがいつも自分を慰めるために持ち出す話題ですね。
これに関しては、


これで説明しきれるんですよ。ごめんね。
といっても、たぶん自費出版者の人たちはわかんないと思います。


人が何かを指摘されて苛立つとき、そのときの人間の心理とは、

自分がイメージしている自分とは違うことを言われたから

なんですね。
そこを押さえてさえいれば、事実の指摘は批判でもたやすく通ります。
その上での提言ですが、自費出版者が原価率を引き合いに出されることは妥当な指摘です。プロではなく、アマチュアだからこそ。
その指摘が通らないのは、彼らがイメージしている自分ではないから。
ならここで考えてみましょうか。

受け入れられずに反発している人たち――すなわち、同人活動にプライドを依存している人たちは、自分自身に対してどういうイメージを持っているのか?

それは客観的・一般的な評価とどれくらい差があるものなのか?

そして、その上で、原価率を引き合いに出されることはなぜ妥当なのか?
なにより、なぜこの話題を自費出版者たちはループさせたがるのか。

――それをマックポテトからフェルメールまで持ち出して説明しようと思います。





自費出版者たちの理想と現実

① 基本的な原則について

 



ところで、原価率で語られるものナンバーワンといえば
マックのポテトやドリンクだと思います。
あきらかに安っぽさがわかるものこそ原価率で語られます。


安かろう悪かろうというのは、
「安物であれば品質は悪いだろう」という普遍的ロジカルシンキングを表した言葉です。
そして、それがロジックであるからこそ、
悪かろう安かろうもあるんです。
「粗末なものは、安物であるべきだろう」というロジカルシンキングです。普遍的な。


つまり……原価だのなんだの考えられている時点で
その程度のモノなんですよ。

他の人と急いで競い合って買うほどでもないから。
なんならエロパロ同人とかなら待てばネットに上がりますし。
どうしても手元に置いておきたいわけでもない。



たとえば200円の饅頭を口にしたとき、
それが美味ければ払う甲斐はあると思うし、
それが不味ければもっと安くてもいいと思います。

どういうことかというと、
「原価と提供技術の乗算でモノの値段が決められている」
というバカにでもわかることをわからないドバカでも、
200円の饅頭に200円の価値があるかどうか判断する能力は総じて持っているんです。

 


この前提に立ったとき、校閲無しで自分のつくったものを並べてクリエイター宣言している自費出版・自費生産者は気付かないのです。
自分が浸っている環境とは別に、実社会のごく普通の人たちの評価軸も存在し、それは刻々と流れているということに。

 
すっっっっっごい普遍的な例をあげますね。
立地が良いはずのお食事屋さんでさえどんどん潰れていきます。
でもあえて店を打ち立てるということは料理人であることに誇りもアイデンティティもあるということ。自負があるということ。それがしくじるのが現実社会なんです。
その事実から見えるものは、
 
クリエイターだからといって、世間一般に評価されるわけじゃないという基本原則。
そしてそういった人間が「それでもクリエイターだ」と自負するのは薄ら寒いという事。
 
そして…
 
自分の作品に対してもっともグルメなのは自分ではない。
なによりも、価値を決めるのは無関係な他人である。

ということです。









ここからが本題です。
では、なぜ自費創作活動家は等身大の自分に気付くことができないのか。
自分たちは好きでやっているだけなのに、なぜバカにされるのか😭😭。
なぜこうしてたびたび恥をさらして、あざ笑われるのか。





あえてここまで表現を外してきましたが、
同人作家というのはリップヴァンウィンクルのようなものです。

森の中に迷い込んだ男リップヴァンウィンクルが、見知らぬ人々と酒宴を過ごし、心地良い眠りに浸ってしまう。目が覚めるとアメリカはイギリスから独立し、伴侶はこの世を去り、子どもは結婚して新しい家庭をつくっていた。
男が心地良い酒宴と夢にひたっている間に、現実はどんどん進行し、置いていかれてしまったということですね。つまりこれはハリウッド版浦島太郎の物語です。最近はこちらで例える人が多いのでそれに乗っかってみました。リップヴァン~の響きが洒落てるからですかね?

 

同人活動とは

 

同人活動というのは、オリジナルか二次創作に関わらず、表現弱者が行うものです。
グリッドマンの記事においては、"ネットでだれもが表現できる時代、表現できないことは傷つくこと"だといいました。それはコンテンツにも及び、"一方的に作品を与えられることは苦しくてたまらない"とも。


ただしこの同人という文化時代は昔からありました。
ネットというのは、いわば『表現の技術』です。ネットという技術の発達によって、レスや動画や画像や音声や放送などの配信・投稿を行えるようになりました。

技術があるから、表現できるようになったから、
表現者でいられないと傷つくんです。

ネットがない時代にも、「表現者でいられないと傷つく」技術保持者がいました。
その技術とは、たとえば「物書きやお絵描きの技法」です。

表現の技術――その技法を持ちえながら表現できないのは辛いこと。
そんな彼らが集まって傷を慰めあいはじめたのがいわゆる同人文化です。もちろんこういったものは世界中にありますね。
規模が大きければ大きいほどいやされる、友達同士の見せ合いっこではいつまでもは我慢できないわけです。
そこで本当の発信者になれる人は、公に挑戦します。できない人、あるいはくじけた人――もしくは、なめあいに心地良くなりすぎた人が同人に居座り続けます。

そうしてお互いを表現者として仮定するところから始まる
申し合わせ済みのゲームがいわゆる同人文化というものです。


でも、お互いにわかってるはずですよね?
それらの作品がたいしたことないお遊びレベルだって。
ふだんから「公式」を見て、プロの作品群に触れてるんですから。
あまり素人モノばっかり触れてるとマジで見る目なくなりますけどね。

この件に関しては二次創作だろうとエロパロなんだろうと関係ありません。
二次創作というものは表現弱者(性的弱者)と創作弱者の関係とはいいましたが、デッドコピーのポルノに狂う性的弱者でさえ、原作とまがいものの見分けくらいつくわけです。まがいものだとわかっていても、オカズが欲しいと考えているわけで、それを本物だと勘違いしているわけじゃありません。


しかしそのルール上のお遊びにあまり浸りすぎると、
クリエイターというものが"表現"によって評価される生業という前提を忘れさせます。

ここで重要なのは
表現技術ではないということ。
労力でさえないということ。

表現なんです。




ちなみに私、趣味でゆっくり解説動画を投稿しているんですが、
月50万稼げるんですよ。趣味で。お仕事とは関係ないところで。
オープニングだって作らないしキャラだって作りませんよ(だいたい東方知らない)。
これ、原価としてはどう思います? 電気代以外なーーんにもない。
時間だって合間を見て作るだけなので負担はありません。

よく「同人は稼げるなんて勘違いやめろ」とか
「実際稼げるからね…」自費出版者たちがいろいろな形で自己肯定していますが、

ごめんね、いまの時代そんな嫉妬してる人はごく少数だよ。
自費出版の人たちはその観点で叩かれてると思いたいでしょうがもう無いです。
動画上げれば稼げる時代ですから。


いじめられるタイプの痛い子だからことあるごとに
白い目で見られてるだけですよ。
自由帳に漫画書いて俺は作家だ!クリエイターだ!って
教室でわめいてる子いたら…ねぇ? だってクラスのみんなはちゃんとプロの作品をたくさん読んでるんだから。質の高いものばかり触れてるんだから。


それでもそこで、同人の場で生き様を刻みたい、ということは、

どうしても作家でいたいよ、
クリエイターでいたいよ…😭😭😭

っていう人が、同人というミソつきでも「作家」という肩書きが欲しいんです。

やっぱりお金がもらえないとモチベーション上がらないとかありますけど……。

自然にできないのを無理してるってことじゃん(笑)

 


同人活動にプライドを依存するタイプの人たち


ちなみにこういう形で自己主張するのは主に絵描きかコスプレイヤーだと思います。
例えば絵描きは常に企画下のブルーカラー。かりにプロとして報酬をもらうことがあっても、買い切りされるばかりで自分主導でモノを作れない人たちですね。
いや、使ってあげる側だからそれくらいのことはわかってますよ。


そして、そんなビジュアルデザイン分野の人たちは
横社会で褒め合ってその日をやりすごしています。それは古今からかわりません。

日本人みんな大好きフェルメールのレベルでさえそうです。
物語画家になりたかった彼はしかしそれを諦め、
民衆の生活を描くことで日銭を稼ぐようになりました。
彼の描きたい物語絵画とは神話や聖書の模倣であって、
それはもっと公に認められた人間がやるべきものとされていたから。もはや席はなかったから。
だから彼は、即物的庶民の要求に合わせて風俗絵画を書き続け、そのうち画家の生涯を終えました。ときおり、天使の影を愛のモチーフとして入れるような涙ぐましい主張を続けながら。
そうして彼の死語、彼の画風の変遷が一つの物語として変容し、一連の作品群として評価されるにあたりました。(晩年の描き込みの減少は作者の諦念を感じさせ実際胸にくるものがあります)


ここからわかることは――
絵という表現は絵描きが思っているほど価値はない
ということです。

具体的にはどういうことかというと、代わりがきくってことです
自分たちののぞむものを書いてくれるならだれでもいい。

逆にモデルのある表現だから、
自分だけのものなんて描こうと思っても描き出せないんですよ。
それが「絵」である以上。

方向性が同じ以上、細部にしか違いは出ないものですから。
そして細部にだけ魂が宿るなんてことはない。そうであって欲しいと願っても。
見る人は「間違い探し」を楽しみたいわけじゃない、ガキじゃあるまいし。
キュビズムでさえ、被写体をカットアップすることでなんとか新しい視点を探そうとした。そこまでしてもゼロから新しいものを生み出せないものなんです。

死ねば評価されるのは、「その人間の一生」に価値があり、
絵はバロメーターであって、それ単体の価値ではないんです。

魂が宿るほどの造形というものは、絵ではありませんが『太陽の塔』クラスです。
もちろんそんな人はルールに従えば優しくしてくれる同人の世界なんかにおさまりません。

そして、
フェルメールが直面した物語画家の例のように、
公に近い人間の絵ほど価値があり、
公から遠ざかる人間の絵ほど価値がないんです。



しかし、それで詰むわけではない。
民衆の「こうあってほしい」「こうであったらいいな」「こんなものを見たいな」
という風俗を具現化することで彼らはなんとか生きながらえることができます。

ときに同人とは――特に二次創作とは――この作品のキャラをこんなふうに描いてくれればいいのにと高望みする『表現弱者』の願望をなんとか具現化することで弱者同士の互助会が成立しているということはグリッドマンの記事でも語りました。



つまり、
ひいき目なしで見たとき、
絵って大したことないんです。
コスプレだっておんなじですね。




しかしそうは思わない例外的な人種がいる。
その大したことないものを仕上げるために注ぎ込んだ技量と労力を理解してくれる人が。

そう、同じ絵描きです。
大したことのないものを認めてくれるのはいつだって同業者です。

ビジュアルデザインの人たちが横社会で褒め合ってプライドを維持している、
というのはこういうことなんですね。

例として挙げるならば、記憶から薄れつつある「五輪エンブレム事件」
あのとき、なぜあの程度のものが選ばれたのか、私にはすぐ察しがつきました。


パクリを褒めるような人間は同業者しかいない。
視野の狭い、デザイン業界の横社会でしかありえない見る目の無さだ。

つまり、選考委員にデザイナーの関係者がいるはずだ。

現にそのとおりでした。

五輪という公の場にあってさえ、横社会の褒めあいをもってきて世間の価値観を理解できないのがグラフィッカーの業です。

だってだって、みんな苦労をねぎらって評価してくれないんだからしかたないよね?
つらいもんね? くるしいもんね? むねがきゅーってなるもんね?



ちなみにいわゆる私が接してきた絵描きの業務で唯一尊敬に値するのは「背景」です。あれは労力と技術力がかみ合わないとできないことなので。もちろんレベル次第ですが、私が見てきたものは一月かけて完成させるような芸術品ばかりでした。しかしそれ以外は代わりがきくのは事実です。


いつだったかクッパ姫の件でも、
「これに乗れないならクリエイターとして注目されないからダメだ」
ってワンピースの作者に言ってる人いましたよね。

あれってねー、実は使われる側の発想なんですよね(笑)
原作家の発想じゃない。上り詰めても代わりのきくブルーカラーが限界の人が作家に言うことじゃない。あれが絵描きの発想ですね。根本的に違う。あのときのっかったあきまんとかも結局有名なペンキ職人であって何かを牽引できる人じゃあないんですよ。





さて、絵描きは絵描きといなければ辛い思いをする。
自分が思っているほどに自分の表現には価値がないから。
たとえば絵師同士のトラブルが多いのもそれですよ。くっつきたくてしょうがないから、神絵師と呼ばれる界隈では有名な人にくっつきたくてしかたないんです。
そうして絵描き同士でくっついて心を温め合う、そのまま彼らは世間から乖離する。

なら絵描きとだけいればいい。とはいかない。
だって、それじゃクリエイターでいられない😭😭

SNSで上げているだけでは作家ではない。
ああ、でもあの先輩は作家と呼ばれている。
あの人のようになりたい――!



そう思って、公に選ばれない絵描きが集まるのはどこか?

――そう、同人界隈です。

今回はやっぱ絵描き勢の必死の自己欺瞞が目立ったので例に挙げましたが、
これはあらゆるルートで説明できます。



あらゆる作品の買い手の99%は素人です。
クリエイターとはそういう相手との勝負です。

しかし同人界隈では違います。

まがいものだとわかっているけど、買いに来てくれる同胞たち。
そして、自分の苦労を理解してくれる先輩たち。
彼らが客を演じてくれています。

これってつまり、
学校の文化祭の出店
とおんなじわけです。


がんばってるねーと努力をほめてくれる先輩。

多少出来が悪くても笑いに変えてくれる友人。

めっっっっちゃ微笑ましいやん!!!























待って。ちょっとアレ見てよ。
文化祭の出店なのに売り子が真顔で
クリエイターの労力をバカにするな
とか言ってんだけど(笑)








④ それでも一般社会の価値基準で認められたい


しかしそのように考える気持ちもわかります。
一般的な市場とは乖離しているとはいえ、とらのあななどが
ノーリスクで自費出版者をかつぎあげる利鞘の良い業務などを始めて、
仮にでもなんでも特定市場で作家として振る舞えるような環境を作ったこと。
そう勘違いせずにはいられないような環境があることはまちがいないんです。


でもね、視野が狭いの。
やっぱりどこまでいっても文化祭のペラい同人誌とかわらないの。
いくら見た目をとりつくろっても、大目に見られていることはまちがいない。

ここで重要なのは、同人における作家は「ごっこ」です。
しかし読者はそうとは限らない。作家にとって他人であればあるほど慧眼のある相手です。
だって、彼らはプロが相手している連中と変わらないんだもん。

 

――それでも趣味でやっているのなら何も問題ないんです。
自分の作品が取るに足らない、愚にも付かない、それでも好きでやってると思えるなら。
好きでやってるんだからいいんだよ!と言えるなら立派なアマチュアです。

けれど自分を作家性のあるクリエイターだと定義したときにおかしくなる。
真っ白な本に描いた俺の作品には価値がある(笑)とか言い出したらおかしくなるんです。
Banksyのようなリターン度外視の「表現者」とも違い、金銭の評価を求めている。

著作権だの転売だの原価だの、
一般社会――すなわち公の価値基準を持ち出したとき、
そのとき彼らの至らなさと勉強不足、なにより覚悟の欠如に直面するのです。

性的弱者がエロパロに浸るのは、見る目がないからだとグリッドマンの記事でいいました。満たされない性に目が曇っている。しかし彼らとて真贋を見極める目はある。
コミケでまがいものを好んで買い漁るような表現弱者でさえ、それが公で戦えるような商品かどうかの見分けはつくわけです。オリジナルだろうがなんだろうが。

同人とはお互いに申し合わせ済のゲームです。
自分たちの活動はライフワークだと予防線を張りながら、
なんちゃって市場のクリエイターごっこをしています。
それは作品の発表の場ではなく、コミュニケーションに近い。
だから、できるかぎり衝突を避けるように市場と同じように苛烈な評価はしない。優しい優しいやりとりを約束された作家ごっこ遊び……。

しかし、商品に値札をつけた以上はそれを軸に商品として判断される矛盾がある。
そして、なにより同人というゲームプレイヤーでしかないのに
自分を作家だと定義してしまった彼らが
身の程も知らずに自分にクリエイターの札をつけてしまったとき、

こんなものに値段上乗せしちゃって恥ずかしくないのw

ごっこ遊びに乗らなかった人の自然な反応にヒステリーを起こすんです。
それは決まり切った慰め合いの粘膜の裏側に常に潜んでいる実社会の評価軸。
それに触れたとき、自分が本物のクリエイターだと思っている人間が起こすのはヒステリーです。うるせえ、好きでやってるんだからいいんだよと消化できないんです。それがマジレスとさえ認められないんです。


もちろん、文化祭に遊びに来てくれた友達は一緒に怒ってくれるでしょうが、
友達だから怒ってくれているわけです。作品が原価を語れるレベルだからじゃない。
でもそれにすがりついてしまう。

バカ同士で信仰を共有すればいつかそれが真実になると信じている――。

前のBTSの記事で語った韓国人の特性ですが、まるでそれとよく似ています。
 

abcefg3135.hatenablog.com

実際、この記事で私は韓国の国民性を同人作家にちょうどなぞらえていました。



"表現"の力でしか評価されない作品を原価率で語られる、というのは
まさにごっこ遊びの最中にガチの一般的感覚の『読者』が提示する現実の評価軸に触れてしまった瞬間なんです。空気が読めないってのは実際そうかもしんないですが(笑)
ともあれ、原価を語ったのがどんな目的であれ、作者を前にしても大事に扱ってやるような作品ではないと思われたのは事実であって、実際にたいした出来ではないのはまちがいないんです。






⑤ いじめられるタイプである


私はいじめの記事で、
集団に属したとき、その基準から外れることでいじめは発生するといいました。

abcefg3135.hatenablog.com



彼ら、愚にもつかないものでごっこ遊びをする自費創作者は、
同人というごっこ遊び集団のルールを守れば彼らの仲間でいられます。

しかし世間一般のクリエイターという評価軸に属そうとしたとき、
その基準の判断者である読者は容赦なく判断してきます。それは、不特定多数の洗礼と市場主義によって洗練された作品を基準としてモノを見る人たちです。

背伸びしてクリエイターという集団に属そうとしたとき、彼らの能力も気位もあまりに低い。

彼らが底辺だから、クリエイターの基準に満たないから、
馬鹿にされていじめられてるだけです。





学園祭の売り子なら相手してもらえても、
クリエイターとしてはてんでお話にならないから。
それに怒るようなら、同人に戻ればいい。

でも彼らはできないんです。原価率で語るな、原価率で語るな、自分の作品はそんなものじゃない、同人はもっと尊く扱われるべきだとだから叫ばずにはいられない。何度も何度も仮想敵を持ち出して、優しい他人しか受け入れたくなくて。

でもね、理想の他人を設定しなければ行動できない典型的な日本人――クリエイティブにもそれを求めるような平凡な人はクリエイターを名乗ることさえ向いてないですよ。




たとえば、コミケは文化といいつつもコンビニバイトと変わらないわけです。
接客業の底辺です。
「ブランド店」まではいかないにしろ、それが「書店」や「塾」になるだけで相手にする客層がまるで違ってくるのは感じられます。
私の稼業の一つであるアドバイザーでも、相手にする団体のランクによってまるで受ける印象は変わってきます。もちろんお話しするときの食事のランクも(笑)

コンビニは誰でも来るから、ゴミのような民度のやつが来るんです。
実際コンビニで日用雑貨品を買うってちょっと底辺率高めなとこあるじゃないですか。

つまり、ゴミのような客と出会うのは、あなたがゴミ溜めでしか活動できないレベルだから。クリエイターを名乗れる場所が、同人団地やSNSしかない底辺だから。

これ言っちゃ身も蓋もないんですが、
自分で金出さなきゃ作品出せない時点で無理してんですよ。

打ち切り漫画を持ち出しで形にしている作家さんとかもいますよね。無理してるんです。

同人作家(笑)を名乗る人たちのやりたいことは世間的には大したことのないもので、技術も労力も足りないんですよ。そしてなにより値札をつけているくせに出来が悪い。


同人というごっこ遊びのルールに乗らない人が見れば、
悪かろう安かろうは当然です。

例外は公式コンテンツの「お疲れさま本」くらいですかねぇ……



好きなように売るっていうことは、好きなように買われるっていうこと。
頭が悪くてもせめてそれくらいわかっておきなと言ってあげましょう。
背伸びして粋がってないで、趣味としてリラックスして楽しみなって。
なによりも常にプロを相手にしている読者の方から。
あなたたちの方が物が見えているはずですよ。














 

 

おまけ:同人誌の転売の是非について

 


そういえば
「同人誌の転売は是か非か」
って話も同じタイミングででてきてましたね。
一応それにも言及しときますか。
是でしょ。絶対的に是。

だれかがフリマで売ったセーターがメルカリで転売されたとします。
そりゃ売った人からすりゃイラッとくるかもしれませんけど、
同人誌ってそのセーターとかわんないですよ?
手編みかどうか知ったこっちゃないです。

著作権なんて、この記事にさえ発生する効力と変わらないです。
どうこうしようったって法廷コントにさえ持ち込めないですよ。

そもそも法律の話を持ち出すと二次創作はお話しにならない路傍のゴミで、
(というか著作の権利を主張すると、今度は責任と義務が発生するので逆効果です)
一次創作だってなんら法律の庇護対象としては強みなんてなにひとつないんですよ。

ネット上の法律解釈に関しておまぬけの度が過ぎるのは、
バイトは本来業務の補助的役割でなくてはいけない
とかいう底辺思考が一時バズった件とかでわかりますよね。
そこで理論武装しようってのは無理なんで、諦めた方がいいです。
同じレベルのバカしか騙せません。



さっきも言いましたが、
好きに売りたい相手に対しては、好きに買うのも自由。
そして買ったものをどうしようと自由。

 


同人グッズなんていくらでも転売してもいいし、
原価を理由に値引きしてもいい。ネットに上げるのさえぜんぜんOK!(笑)


これは仕方ないんですよ。

市場のルールにものっとらずにアマチュアでやる。
趣味として楽にクリエイター気分を味わいたいからやってることです。
作り手がルールの押し付けていけるように、客だって今度は同じになるわけですよ。

その人が商業経験があろうがなんだろうが同じことです、
コミケに物出してるほど暇なやつってことには実際変わりないですから。




同人なんて、創作弱者同士の世界ですから、舐められて当然。
クリエイターごっこフリーマーケットである同人界隈において、客の側も評論という形で表現者を気取っているわけです。表現しなければ傷つく世の中で、あるいは評論さえ表現の一つでありますから。底辺レベルの表現で茶を濁して満足したいのは売り手も書い手もおんなじなんですよ。みーんな、同類、同類。作品出したからって上に立てるような環境ではないんですよ。


いずれにせよ、
趣味だろうとごっこ遊びなんだろうと客を求める以上、
お前ひとりで決められることじゃないよね。
っていうことなので。


もちろん、彼らが
ゴミ出しできてえらいね
ってほめられたいのはわかります。
だけど、そうなると今度は乞食がゴミ漁りに来るわけです。
本物を出せない以上、つきものです。
だから、たまにはもうちょっと落ち着いて身の程を見直すのもいいんじゃないですかね。

妄想と現実の摩擦でヒステリーが起きるのは世の常です。不健康ですよ。



好きなことをつらぬきたいなら、値札なんてつけません。
売れるように題材や描くものを選ぶわけだ。バンクシーとは違う。
それをつける以上、やはりやりたいのは作家ごっこなんです。

だから本来は同人作家ではなく、作家同人活動なんです。
そういえば作家ごっこだと自分を戒められる。

もっと正確にいうならただの自費出版者・自費制作者にすぎない。
それをフリマで売ってる人だと考えればもっと楽だ。
素人AVとかも含めてそーゆーことなんです、一般的には。







「同人誌の作り方」的ムックも出てるあたり、
ある意味歌い手やゲーム実況者的な誰でもできそうブームを迎えつつあるのは感じます。

しかし、公に認められない程度の表現を売ろうというとき、
同業者とばかり傷をなめ合っているとそのぶん現実と向き合ったときの反動は来ます。

森の中で見る夢は、現実にはなりません。
いまさら浸っている人はどうあがいても抜け出せないでしょう。
ガルパンの公式四コマに選ばれながらも、まともな仕事ができずに底辺に戻るしかなかった人もいますね。




それはそれで身の丈に合った生き方というものだと思います。
できないものはできないんです。能力がないんだから。

しかし忘れてはいけないのは、
この上の例のように同人界隈は森の中の夢に過ぎない。
現実はどんどん遠ざかっていくものなんです。

本来、書籍は原価率で語るもの。
自費出版者がそれに対してヒステリーが起こすのは、
ふだんからそこに描かれた表現にお情けでほめてもらっているから。
がんばったぶんだけ褒められるという小学校並の価値基準があるところだから。
なによりそれが本当のクリエイターの証明だと彼らが信じてしまっているから。

真っ白なじゆうちょうの落書きを
仲の良いクラスメイトだけがすごいすごいと
褒めてくれている程度に過ぎないというのに。

無能ががんばっただけでは技術料なんて発生しない
ということを忘れてしまっているから。


そういう面もたまには意識してみると、
あるいは彼らの心の安定になるかもしれないのにな、と思いました。