全方位に喧嘩腰

無駄な有識者が各業界の裏側から流行のトピックス・ニュース・作品・表現について語るブログ

〈BTS原爆Tシャツ事件〉から見る日本人の"韓国人化"のヤバさ



人間は常に沈下の危険にさらされている。
ただしその一方で上昇の可能性も目の前にある。
どんな現実の様相やシークエンスが、いつなんどき、
そのどちらに変わるかもしれない。天国と地獄、それは死後ではなく、いま現在にある。
抑鬱、それにあらゆる心の病は、沈下を意味する。では上昇は?
それはいかにしてなしとげられるのか? 感情移入をつうじてだ。
外側からではなく、内側から他人を把握することによってだ。

――フィリップKディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』より
 

 

 

 

 

 

 

 

今回のトピックス


なーんて意味深な引用をしつつ、
今回のトピックスはこれ。




いやね、意外でした。
これを日本社会全体が問題としてとりあげたこと自体がです。

「原爆酒」みたいにガチでシャレにならない件に比べれば、
頭の弱いジャリガキの粗相でしかないから適度に扱い易いんでしょうが、
それにしても、2年前の着衣の件をほじくり返して排斥するだなんて、
後光表現をかたっぱしから旭日に見立てて抗議運動を始めるような韓国の国民性のようで、
いままでの韓国にまつわる臭いものには蓋日本的パターンとはちょっとちがいますよね。


まず一つめの提言ですが、韓国への反応はあくまでこれでいい。
『韓国』という国家を代表する人間が、一般的な社会性をもってテーブルにつくことは永久にないでしょうから、これでいいんです。
IQが違う相手と会話が成立しないように、良識をもって接することはただの時間の無駄にしかなりません。
地理的文化的に密接にしている隣国を「相手にしない」のも難しいですから。



ともあれ、このたびの反応は、「正しい」。
すなわち、日本国民が、韓国の国民性をある程度学習したということです。

ここに危険がはらんでいます。
今回の記事はその警鐘を鳴らすことが目的です。

相手を理解するということは、
自分のなかに相手の思考回路を取り込むということでもある。
それはたとえば、
「ミイラ取りがミイラになる」「深淵をのぞくときまた深淵もこちらをのぞく」
といったような言葉によってあらわされてきました。

先述したように、今回の日本側は韓国的な反応であることは意識しなければなりません。韓国の国民性がそうであるように、ヒステリーに狂うことがスタンダードだと勘違いしてはいけない。


ときに、バカのふりをしているとバカになる、という逸話があります。
これ、実は的を射ています。
人工知能は「帰納」と「演繹」なる思考経路によって成長する知的存在です。
しかし、それはもともと人間が言語によって獲得した能力です。
帰納』=『特殊なものから普遍的なものを見いだす』人間の思考とは、
奇行の中にも自分らしさを見いだして、それを正常だと思い込むエラーをはらんでいる。

この理論が具体的に適用されているもののひとつは、
カウンセリングにたずさわる心理士です。
職業として精神病者の認知両療法に向き合うことになった人間がもっとも注意を払うべきといわれるものは、クライアントを傷つけることでも心的状況を悪化させることでもありません。なによりも、クライアントに影響されないよう距離を置くことです。

精神疾患を抱える相手を理解し接することは、
心理士の側にも強くフィードバックされる。
カウンセリングとは患者が病識を認知していく過程を併走する行為ですから、
同じ形で病的な思考をトレースしていくことになる。
仮にでもなんでもなく、病的な思考回路を一時的にインストールするはめになるのです。

異常心理はたやすくフィードバックされる。そのとき、心的健康を害すれば、治療どころかお互いに状況の悪化を辿ることになる。だから気をつけなければいけないのです。
クライアントから距離をとるためには、フォーマットを意識する必要がある。

異常心理を抱えた韓国をクライアントとして、
それを歴史的に介助してきたのが日本です。
クライアントに適応しはじめてきた今こそ「健康的な思考」のフォーマットを作る必要があります。












さて、こんな導入から始まった今回ですが、
いつもの業界人お試しパック(大増量版)=無駄な有識者と要約している筆者の長所を捨てて、本当の意味での有識分野である心理の面からお話ししていこうと思っております。


健康的思考のフォーマットを作るために、韓国の異常な国民性と、そしてなにより、汚点も当然抱えている日本人の心理傾向を客観的に説明しようかと思います。
全方位に喧嘩腰なんですから、韓国だけ叩くような心地良い記事じゃないですよ。

理想の自分を捏造する韓国の国民性
理想の他人を捏造する日本の国民性
その相性の最悪な良ささえ見つめ直す荒療治が必要になります。

いまのうちに今回の結論を述べておきますが、
日本が韓国に正しい反応をできるようになったのはだれかが「そうすべきだ」と国民が理性で判断したからではない。だいたい社会全体の反応とは、個々の理性など超越して起きる感情的反応の総体です。それが韓国の神経症的暴走に対抗するまでになった。
つまり日本の内面に韓国とタメをはれるくらいヒステリー文化が育ってきたということです。結果は正しくても、過程は健康的ではありません。そのことをこれからじっくりと説明していこうと思います。




 

日本人の国民的ヒステリーを避けるために知るべきこと

① 韓国の国民性について


韓国の国民性とは、虚栄心のひとことで説明しきれます。

この記事をここまで読んでいる方ならわかっているでしょうが、
これらの性質を示す好例として、

・整形大国
・起源主張傾向
・前大統領の社会的抹殺文化

わかりやすいところでこの三点を挙げてみることにしました。

整形大国


韓国は説明不要の整形大国です。
美容整形の文化は日本にももちろんあります。芸能人が当たり前に美容整形し、液体注入などによるプチ整形が広まっている日本が何を言うかとおっしゃいますが、一般人の誕生日プレゼントが美容整形になってくる文化は並み外れています。部族の入れ墨と並べるにはあまりに劣等感に根ざしすぎた姑息な生き様ですが、それでも、個人的にはそれはそれでいいと思います。

ただ、それが祝福に値する社会から透けて見えるのは、
ありのままでなくてもいい
という精神構造があるということです。

「旅の恥はかきすて」という言葉がありますが、このを韓国にとっての一生に置き換えるとわかりやすいかもしれません。流浪の身ではなく一国家なわけですから、「なかったことにする」方法論が求められるわけです。
「自然」の恵みに感謝し、それを親からもらった肉体にもおよばせる日本の考え方とは対極にあるものです。

 

起源主張文化


これについては五輪を巡るコムド騒動を例としてあげましょうか。この騒動を乱暴にまとめてしまうと、「剣道の起源は韓国であり、父親な原点である韓国剣術こそが五輪の競技として採用されるべきだ」という韓国側の主張に端を発する論争です。

日本には「雨だれ石を穿つ」という諺があります。まったく同じ文脈で、語尾を「石を割る」とする英語圏の諺があります。むろんその意味は同じものです。
このように、同じ人間である以上、ある程度、この世界の森羅万象にむきあったときにうまれいずる文化に対する向き合い方というものはだいたい似通ってきます。

同じように、人と戦うため、あるいは獣を狩るために、全世界中のひとびとによって、まだ言葉もないころから鋭く研磨された武器がさまざまな形で生みだされてきました。その武器を扱い続ける中で効果的だと考えられたものは理論化され、いつしか「術」や「武道」の体系をもって結実することになります。剣道もその一つです。

そういう普遍的なものを「我らが特殊の発祥である」と考えがちです。
我こそ数多の文化の中心であるという自負を持つ中国などの国民性とも似通ってきますが、それらとは違うことは仮定を理論武装にしてくることです。すべては神が生んだものであるという信仰に近いものです。コムド関連の主張は宗教勧誘に最も似ています。

すなわちどういうことかというと、
物を知らない上に、物を調べない
ということですね。
この思考停止がどのような文化の流れを生むか、
それは韓国の国民の代表である大統領を見るのがいちばんかと思います。

 

前大統領の社会的抹殺文化


韓国文化では大統領が交代するたびに、前大統領に社会的制裁に晒され、
政治の舞台から退場させられるのが常です。普通に逮捕さえされます。
これには二つの側面があります。

一人の人間の立場次第で問題であることを問題でなくすることができる

ここまでは日本にもあります。全世界の権力者にできることです。
ただしもう一つの面が問題です。

一人の人間の立場次第で問題ではないことを問題にすることができる

早い話が、司法行政を自分の都合でコントロールする独裁者が大統領になることが当たり前になっている国ということです。それが当たり前にくりかえされる文化圏、これがその文化圏の国民の代表です。

それが対日本にあらわれたのは枚挙にいとまがありませんが、
もっとも直近では徴用工問題でしょうか。

大統領の言葉によると当時の国際法は真実にあたらないそうです。一事不再理の考え方は国ごとなので反論として持ち出すのは妥当ではないですが、それをしてももはや司法を擁する国家の思考としては原爆Tシャツなんて可愛いくらいの狂気です。
"現実は固定化された夢のようなもの"というのは往年の『アナザヘヴン』の台詞ですが、
現実を明晰夢のようなものだと思っているのが韓国の国民性です。

これに異常と気づけないのが韓国の国民性です。
韓国の国民性において、唯一無二の真実などなく、恣意しかないわけです。
自分ののぞむものを具現化できると感じる、幼児特有の万能感連綿と続く歴史や事実に目を背け、上っ面を糊塗することでそこに描かれたものに価値があると信じたい、信じている。彼らの人生観は夏休みの絵日記と変わらないわけです。

しかし現実を嘘でぬりかためた以上、本質的にはそこには何もなくなってしまって、虚だけがある。

それでも、なんとか虚を形にしようともがくのが韓国の国民性です。
韓国がロビー活動に熱心なこともなんとなく見えてきませんか?
 
 
……しかし、そんなものはおいそれと通用するものではない。
嘘を嘘と見抜けない人間――慧眼のない人間がいてはじめて通用する考え方です。
まがいものに価値をみいだしてとりあってくれる人間が必要なんです。

 

 これは以前語った表現弱者と性的弱者の関係性によく似ています。

韓国にとって世界はコミケその国民性は二次創作で性的弱者にすがるしかない底辺の絵描き同然なわけです。

 
 そうして、彼らは、虚を実として受け取ってくれる人間を捜し続けている。彼らはいつなんどきでもその機会を、その対象をうかがっている……。
 
 
 

 

 

一方、過去の日本は「良識のある話し合いをしよう」と今まで韓国との問題解決の対話にのぞんできました。

論議というものは、互いの思想互いの利害のつり合いを、
一般的な観念と良識中心軸として行われるシーソーです。
韓国の場合、その中心軸虚言もしくは信仰です。

原爆Tシャツを作ったメーカーはあくまで原爆の被害者を在韓と在日で分けて、後者を排除したように、感情的な発言を公のメッセージとして発することに疑いを持たない相手であるわけです。



…は? 韓国人にもまともな人はいる?
当たり前でしょう。

それでも個々の良識などたやすく押し流し、
カリカチュアライズできるほど一括できる全体行動のことを国民性というのです。
そして、大多数の国民はそれに準じている。サブタイプに希望を見いだせるほど社会のダイナミクスは容易くありません。

その証拠が韓国の愚かな面としてあげられがちな火病です。

 

火病」を通じた心理学的認知のアプローチ

 

この概念は本来は「文化依存症候群」と呼ばれているものの一種で、特定の文化圏において多く見られる精神障害の傾向を指します。
症候群の名のとおりに「文化が引き起こすもの」であり――それは、文化の病的な面が人間を通してあらわれたものです。

火病は乱暴な言い方ですが、そのありかたは集団ヒステリーです。
ヒステリーは欲求が満たされないときに起こるもので、ここで挙げるのは少々気が引けますが、もっとも純粋なヒステリーとは、自分で決めた物の置き方が崩されると泣きわめく自閉症児の混乱です。

ストレスで起きるヒステリーは個々の体験に依存する。
しかしそれが全体的に起こるとなると原因は先天性に寄ってきます。自閉症児が全体的な傾向としてその性質をそなえているように。
傾向としてのヒステリーとは、自分で決めた物の置き方しか耐えられない人間が起こすものです。

これが韓国の文化に通底した国民性です。

しかも、個々の傾向によって発達を鍛錬でおぎなえる自閉症児と違い、
国民性に個々の理性が介在することはありません。
永久に合理的に成長することはないんです。

良い面もあります。
スポーツなど過度な感情的集中を要する場であれば、彼らの感情が力に変わることもあるでしょう。でもまあ、しょせん娯楽です。たとえばサッカーが貧民の娯楽といわれがちなのは、貧民が成り上がれるからもありますが、たとえば英国で職につけない浅学な無職の若者が身の程を忘れて酒を片手に騒ぐためにすがるもの、富裕層や知識人は見下すようなものだからです。
娯楽は国家の価値など左右しません。あるいは精神的物理的貧困のバロメーターでさえある。『レディプレイヤー1』だってなにもない世界のすがる先がMMOでしたよね?
そういった娯楽を輸出して、偶像商売を得意していることは皮肉としかいいようがありません。日本のアニメーションという娯楽の根底を性的弱者が担ってきたように……。


そのように、韓国の国民性とは、
成長の期待できない末期的ヒステリー患者そのものです。

なぜ韓国には同レベルで対応するのが正しいのかこれで説明できます。
粗相をしたらダメだと身体でわかるようにひっぱたくしかないからです。
何が粗相もわからないのだから、噛まれたら噛み返すことで痛みを教えてやるしかない。動物がじゃれあいの中で甘噛みをを覚えていくように、動物のレベルまで落ちてやるしかない。あるいはもはやトイレすら学習できない痴呆の老犬かもしれないとしても。

そして、なにより大事なのは、今後いっさい韓国の虚無の二次創作を受け入れないこと。そこで一歩踏み込ませたら、パワー系が暴れ回るだけの地獄絵図が広がりますから。



……
……
……


ここまでは韓国の浅はかさを語ってきました。
しかし、他人を一方的に見下して気持ちよくなれるほど私は韓国的ではありません。
どういうことかって?
そんなキムチ臭のする同人詩に金を落としてきたのはどこのどいつだよ。
と日本の国民性を恥じ入らなければいけないんです。

表現弱者が、審美眼を持たない性的弱者しか相手できないように、
日本人もまた見る目のない知的弱者なんです。
だからここまでつけこまれているんです。

 



韓国に国民的風土病があるように、日本にも病はある
それが日本の文化依存症候群、すなわち「対人恐怖症」。これが示す病的な日本の国民性こそが、いままで韓国をつけあがらせてきた原因でもあります


私は、
"過去の日本は「良識のある話し合いをしよう」と今まで韓国との問題解決の対話にのぞんできました。"
と先述しました。
そして、
"論議というものは、互いの思想互いの利害のつり合いを、
一般的な観念と良識中心軸として行われるシーソーです。"
と。

しかし、それがうまくいかなかったのは韓国が狂っていたからだけではない。
日本の側にも一般的な良識などなかったからです。








② 日本の国民性について

日本人の良識には歪みがあります。
ひとことでいえば、日本の良識とは卑屈さです。
つけこまれたのはそのせいです。これは、後に後述しますが、ネットに触れた世代が息苦しさを感じがちな面でもあります。

韓国が異常心理のトピックスを投げかけてくるとき、我々は少なからず反応せざるをえないときはやってきます。それが少しずつわたしたちを毒していくかもしれない。そのときに自分を見失わないために必要なものは、正しい良識を持つことです。


そのために、日本固有の卑屈な良識を解剖していきたいと思います。

 

調和と謙虚の文化の裏面


日本人の国民性は「調和」「謙虚」でしょう。
日本古来の美徳として語り草にあげられる江戸しぐさはその好例です。
互いに肩を引き、道をとおりやすくする
というものです。

ここで重要なのは
お互いに
という調和を前提とした文化だということです。










お互いに道を譲り合うなんて当たり前のことなのに
わざわざお題目をつけて掲げるのが日本の文化なんです。
ことさら「謙虚さ」を誇張し、これは粋だと悦に入るのが日本の文化の病的な面なんです。


時は巡りて現代日本においては、
道をゆずってくれた車にハザードランプで感謝を示すという
ドライバーの文化があります。これを見て「クールだ」という外国の方もいますね。
そもそも似たようなやりとりなんて世界中に自然と生まれますが。


しかしこれにはクールではない一面がある。
これが『申し合わせ済み』のお決まりの文化になったときに起きる齟齬。


道をゆずってあげてわりこんできた車が、ランプをつけずにそのままアクセルを上げて走り去ったら?「挨拶くらいしろよ」と苛立つ人はかなりの数にあがりますそういうルールに従って謙虚さを示すことが前提とされている文化だからこそ

むろん、「挨拶をしたのに挨拶し返さない」、「助けたのにお礼をいわない」、そういった黙殺が失礼にあたるのは万国共通、文化人には当たり前のことです。

しかし、礼を示し合うことを前提とした社会行動を次々と生み出すのが日本の傾向です。

日本の江戸しぐさ「相手が肩を引かなければ成立しない」ように――
こちらが示した謙遜に対して、相手の感謝の見返りを求める文化が多くあります。

お歳暮も、ホワイトデーも、これらはなにもかもにおいて感謝の見返りを求める文化す。いや、ホワイトデーとか好きですけどね私。

ようするに、ドライなままでいることを許されない文化圏です。接客業の過剰な挨拶などを見れば、それがよくわかりますね。
りゅうちぇるなども我が道を行くならあそこまで叩かれませんでした。ドライでいることが耐えられないから、共感を必死で求めた結果があれです。


お歳暮にお歳暮を返すことが良識で、それをしないことは失礼にあたる。
そんな日本の良識とは、見返りを前提とした文化に立脚しています。
江戸しぐさ」がそうであるように、自分が謙虚に身を引けば向こうも身を引く、そして心地良い公平な関係性が築ける。
それはすなわ、「見返りがあるものと確信しておこなわれる卑屈な行為」でもあるわけです。そうすることで対等になってくれるだろう、良い顔を見せてくれるだろうという上目遣いのごますりが日本の美徳の影には見え隠れしています。

 

 

「対人恐怖症」を通じての心理学的認知


日本の文化に依存したときに生まれる「対人恐怖症」。
それは「相手からの見返りを確信できなければ動けない国民性」のあらわれです。
自分の身の程など二の次にして、「自分にとって都合の良い人でいてくれるだろうか」ばかり気にして、一人一人の性格にしっかりと向き合えない。自分に合わせてくれるだろうかという甘えた考えを持ち続け、合わない人とは付き合えずに自分だけの世界で適応障害を起こした思考停止が日本の国民性です。相手の顔色をうかがうのは、それに合わせるためではなく、自分の理想とするパターンになってくれるのを待つためです。日本人がディスカッションしない、できない原因もこれですね。考えたくないんですよ、「優しさ」のやりとり以外。

そんな風に、死ぬまで相手の隣人愛に過剰な依存をし続けるのが日本の国民性です。





日本には「嘘も方便」という言葉があります。
物事を円滑に進めるためにはうわっつらの言葉も用いることがあるという意味ですが、

日本における良識とはまさにこの方便そのものです。
「自分が悪くなくてもとりあえず謝る文化」がありますね。こっちが謝れば向こうも気分を良くしてくれるだろうと思うのです。
そして、互いに笑顔になってようやく対等に会話できる。
――裏を返せば、そうなければ対話さえできない精神的な柔軟性の決定的な欠如があるんです。恋愛においても見合いが当然で、ゲームでも決まった選択肢を選ぶことでそれが恋愛の誤認として成立したように。始まる前から内容の決まった会議をすることが社会的な対話として考えられるように。


だから、責任の可否など考えもせずとりあえず謝る。
日本人は、善悪や客観性の判断を放棄して、自分の非をつくりだしてまで謝罪する。そうすれば、向こうは「いつものパターンにはまってくれるだろう」甘く考えて


慰安婦問題」などがその代表例です。
韓国側のイキりっぷりったるや、そのうちクローンでも持ち出してくるんじゃないかと思う勢いですが――そもそもこの非をもちだしたのは日本です。

当時の国民が厭戦気分をぶつける先を探していたところ、日本のメディアが彼らに売れるトピックスのメソッドとによって持ち出したものがこれでした。
韓国がこれを受け取り、二次創作を肥大化させ、日本に対する交渉材料として持ち出すようになった。そこまではまだよかった。

そこで、
謝っていればいつものパターンにはまってくれて許してもらえるだろう、話はそれからにしよう。
と考えたのが日本の国民性がみちびきだした結論でした。
この流れは、昨今の筋違いのヘイトスピーチ制限が近いものがあります。こっちが黙れば、向こうも黙ってくれるだろうという上目遣いの猫撫で声としてはじめたものだから、本来の用途にくらべてはるかに卑屈なものです。

相手の要求を呑めば対等になれるはずだ…事実から目を背けて言葉を濁して金銭を与え続ければ、いつかお互いに笑顔の談笑のときを迎えられるはずだ…と。それが日本固有の、TPOを弁えず知的とはかけはなれた良識的な行動でした。

それがどうしていつまでも続いたのかって?
だって、いつも顔を真っ赤にしている韓国さんが、
「自分達がいけないことしました」って謝罪したら満足げな顔をしてくれるから。

 

――そうして、日本の国民性は、
対立を避けるため、ときには事実すら恣意的に歪曲し、
その物を調べることさえ放棄した。韓国がそうであったように。

良識のことを
優しくすれば優しくし返してくれる魔法の呪文
という思考回路のことだと気付くことができないのが日本国民です。

売れない作家が編集者に苦言を呈されたくらいでSNSで泣き言を喚き散らすように。
優しさを返してくれないことは良識的ではなく、罰するべきことだと思い込んでいるんです。
すなわち、日本の国民性は毎日でも幼児プレイをしたくてたまらない風俗通い同然なんです。



――まとめましょう。

優しくしてもらえるなら恥すらいとわない。
その幼児性日本の国民性です。

 

 

韓国と同じく現実を見つめてこなかった日本


主権を持ち得がたかった歴史から劣等感を育て続けてきた朝鮮民族の国家に突如ふってわいた、自分のプライドを満たしてくれるサンドバック。しかもそれはなぜか自分のことを叩いて欲しがっている。こっちが満足すれば向こうも満足そうな顔をしてくれる。つけあがるのは当たり前です。そうして、日本の卑屈な奴隷根性は、同じく隷属であり続けた韓国の恥知らずの虚栄と見事にかみ合いました。

理想の自分を捏造したくてたまらない韓国と
理想の他人を捏造したくてたまらない日本が、
どちらとも等しく"現実"を見つめていなかったためです。
現実から目を背け、向き合って来なかったのは同じこと。奇しくも、他者依存の日本が主導権を与えてしまうことになってしまったというだけです。

すなわち、韓国の異常心理のひとつである反日傾向はそもそも、
日本の思考停止とかみ合って生まれたものでもあるのです。

 
死ぬまで幼児プレイをしたい国民性を持つ日本人が、
すりよった相手はただの自分に甘いだけの虚言癖のメンヘラでした。

……そして、カウンターを始めた現在の状況。
それを公平な目で見たとき、日本人の態度とはこういうものです。
 
 
 

虚言症の病人に勝手にバブみを感じて、
相手が良識ポルノを一緒に楽しんでくれなかったから
今さらになって逆ギレをはじめている。

――それが今の日本人の反応の客観的な見方です。

帰納という思考によって、特殊から一般をみちびきだす力を持った人間は異常な精神構造をもってなお理性を同居させうることができる。
統合失調症患者が「集団ストーカー」という形で自身の異常性を理性で自己理解するように。

ゆえに、異常過ぎる韓国の国民性のなかにも微かながら理性は残っている。そんなわずかな理性を通じて日本人はそんな異常者として見られている。そしてそれは事実なんです。

日本人にとっての良識
相手の顔色をうかがって
出したりひっこめたりするまがいものものだったから
こんなことになったんです。
やらせ番組のメソッドを言論の場にすらもってくるのが日本人だからなんです。


韓国の虚栄が同人誌なら、人気次第で出したり引っ込めたりする
日本の良識さえも中身もなにもないご機嫌伺いの二次創作にすぎないんです。

どっちも空っぽなんです。頭の悪い人間がそれをもちだせば、日本の「和」は「パターン化」、「謙虚」は「ご機嫌うかがい」にすぎません。

私は冒頭で対韓国問題の反応はそれでいいとはいいました。手遅れだからです。もっといい方法だってあったに決まってるだろうが








③ 良識とは


ネットを通じて、日本土着の『良識の和』から逃れた新しい世代が、
少しずつカウンターをくらわせるようになってきた。そのひとつが今回の事件です。

まあ、それはいいです。
注目すべきは、メディアがこの件を隠さず扱ってきたこと。
すなわち、『新しい世代に売っていくトピックス』と知ってきたからです。
戦争の気運を高め、反戦の気運につけこみ、公平性などなく売れる思想を売り続けるメディアは次の世代への売り込みを考えはじめています。
これからは一過性の過熱ではなく、韓国へのカウンターの流れは本格的に根付いてくると思います。これは韓国問題の対症療法としては大事なことで、対外意識を正常化するためには必要なことでもあります。




ただし……
今回の事件を客観的に見たとき、
日本は韓国と似通った精神性があるがゆえに、
気色悪い相似形の流れが生まれつつあるなとも感じます。



他者への侮蔑で劣等感を慰め、相対的な誇りでなんとか自尊心を生きながらえさせる――精神の自発呼吸を失った人たちのようにはなりたくはないでしょう。そのためには、恣意的に出したり引っ込めたりする良識は捨てなければいけません。そろそろ現実に向き合わなければ、精神性はこのまま韓国に近づいていくことになります。




いやいや、日本と韓国では立場が違うじゃあないか。そもそも韓国はWW2における対戦国ではないのに戦勝国ぶっている、おかしな連中なのだから。そんな論調を見かけます。
妥当な反論ではありません。
ネットを通じて、日本土着の『良識の和』から逃れた新しい世代ならわかるはずです。



鼻につくタレントやメジャーなコンテンツがスキャンダルを起こしたとき、
当事者でもない一般人がネットを通じてつぶやくあの言葉。
「おまえらまた勝ってしまったな」
あれですよ。無関係だからこそ出てくる、自尊心だけ満たせる心地良い考え方。

韓国は日本の統治下にあった時代をなかったことにして、
そうして言いました。「勝ってしまったな」と。

自分たちが勝ったわけでもないのに勝利を感じ、その証明として謝罪を求める。
それはさまざまなニュースでも感じませんか?
なにかと謝罪を求める国民性は日本にもともとありました。謝罪させることで溜飲がくだり、そうでなければ身の程知らずだ、反省していないと見下す。
これもまた隣国の行動とかぶりませんか?

日本と韓国がかみ合ってしまったのは、もともとから似通っている部分もあるから。そこから目をそらすことは非常に危ない。かつて勤勉と拘りで知られた日本の企業が起こしている諸問題さえそれに通じてきていると思いませんか?






「お前らまた勝ってしまったな」の副作用


私が恐れているのは、日韓を結ぶプライドの接点が逆転して、
日本人に浅はかな韓国的勝利体験が逆流してくることです。
情勢的に見てもこのままなら日本は国家として韓国に強く出続けることができるでしょう。日本の現政権の外交手腕は卓越しています。しばらくの間は問題はないでしょう。国民はそれに準じます。ただその結果として、かつての韓国と同じように、日本人が勝手に勝利体験を味わってしまうと第二の韓国文化が生まれかねない。

昨今の日本人・日本文化はこんなにすごい系の自画自賛番組の流れだってそうではありませんか?あれはまさに感謝の見返りを求める日本の病気と、虚栄を求める韓国の病気のハイブリッドですよ。

日本の敗戦国の劣等感韓国の歴史的属国の劣等感は非なるものなれど劣等感です。揺り戻しはあって当然ですが、着地点が同じでは目も当てられません。




日本は「調和」の文化を生み出して続けてきました。
それが成立していたのは、調和のルールは先輩に手をとってみちびかれるなかで伝えラレ続けてきたからです。
しかし、それは、ネットを通じて情報を収集し、効率的な行動をとることを基本とする現代日本の論法とはそぐわない。この新旧は結びつきがたい。消えていくものも新しく生まれるものもあるでしょう。それは憂うべきことでも喜ぶべきことでもない。


――この問題は、
日本の悪しき良識とともに、
良識と悪識の判断基準さえ一気に薄れてしまったことです。

ネットというものは、「自分の見たいものを見る」というものです。動画のCMが僅か15秒でも視聴者にストレスを与えるというのはマーケティングの常識です。それが生む人間の精神構造は、自分の心地良い情報を取捨選択するということ。意図的なカットアップによって都合の良いストーリーさえ組み立てられる。

韓国の国民性がそのようにしてアイデンティティを構築していったように。

SNSでバズる漫画などに見られるように、自分は無垢な善人だと思い込んで、傷つけられたことを精一杯訴え、傷つけた相手を侮蔑したい人でいっぱいです。
どっかのバカがアルバイトはあくまで補助でなければいけないとありもしない労働法解釈を披露して、それにバカなフリーターどもがとびついた話題もありましたね。
そうしてなんとか自尊心を満たしたくてたまらないんです、仮想の敵を共有してくれる馬鹿と一緒にそれを打ち倒すことで。
バカ同士で共有すれば、いつかそれが真実になるなんて甘い考えは、まさに隣国の悪癖そのものです。現実を見ていない。
この先、韓国を叩くことで自尊心を得る、それを求めて情報を取捨選択する流れは増加していくと思います。しかたないことです。韓国にとっても自業自得です


今回の件はそのはじまりのひとつです。


考えもなく原爆Tシャツを着ただけの雑魚を叩いたこと、そのトピックスを追ったことで、あなたのなかのなにかが満たされた感覚はありませんでしたか?
典型的な間抜けを見下すことでいままでの劣等感が癒されるような感覚は?

 
それを否定するわけではありません。

ただし、それによって自分を見失ってはいけないといっているんです。

あることないことを都合良く解釈し、期待し続ければ、やがて現実との摩擦でヒステリーが生まれます。少しでも傷つくことが耐えられない病的な一部の女にセクハラという使い勝手の良い良識を与えた始末が今の日本のフェミニズムであるように。
彼女たちは自分が少しでも傷ついたとき、それを使って謝罪と自粛を求めます。韓国人のように。謝らせることが勝利だと思っているのは、日本人だって同じじゃないですか。


そんな人間にならないために必要なたったひとつの態度。

それは、良識をもってなお、ゆずれないものを見据えること。
良識ゆずれないものは別々に考えること。


今回のTシャツ事件を例に解答しましょう。

「原爆は二度と起こしてはいけない惨禍だ」
「それを嘲笑し歓喜する人間は許せない」

と二段の論法をしっかりと構えることです。
当たり前のことです。しかし、場合によってはこうなるんです。

『原爆の悲劇を傷つけたから攻撃する』

 


世代が変わるということ


時代は変わり世代は転換期を迎えています。
私はおそらく新しい世代の側です。両親も戦争は経験していません。

そんな私にとって、原爆のこと、その被害者のこと、
彼らの心痛を心から理解することはできません。

当事者の言葉や、それを題材として扱った作品や、記念施設を通じて、
教養として知り、それを"想像で補っている"世代です

折に触れて原爆という我が国の悲劇を不埒に触れてくる韓国の国民性に怒りを覚えど、
それは完全に被爆者のためかといえば疑問が生じます。
原爆ドームで見た写真が脳裏に過ぎり、その悲しみを覚えただけでは決してありません。
だからこれは私自身に対する戒めでもあります。


原爆を口実として、宿敵を攻撃した。そんな感情はどこかにあるはずです。
そしてそれは韓国という国家が、国民を牽引してきたエネルギーとよく似ています。


悲しいことではありますが、いつか原爆のことも過去のものになります。
かつて虐殺の限りを尽くした暴君ネロですらいまや性的弱者の対象商品です。



かつて戦争を引き起こした新聞屋が同じように反戦気運を商品化しました。
韓国は国家がそれを主導していますが、日本の場合はそれがメディアです。
そしていずれは原爆など「民間人を狙った災禍」さえ商品トピックスにするかもしれない。だから今のうちに練習をしましょう。


「韓国に躾をする」
「侮蔑によって自尊心を満たす」

この二つを分けたとき、後者が悪識だと感じたときは理性によって切り離すこと。

「韓国に躾をする」
「たわけにはこう対応するのが当たり前」

としっかりと良識に置き換えること。多少の痛快さはユーモアとして味わうのも一興でしょう。でも度が過ぎてはいけません。

日韓合意などは良い例です。「合意」を後天的な「良識」、シーソーの中心軸として用意したのはいい判断でした。向こうが受け入れずとも、こちらの軸がぶれることはありません。だから政治の方は安心してください。いまのところはだいじょうぶです。問題は、政治になんて欠片も関係ないあなたたちです。



新しい日本の国民性の間隙に虚栄がふくれあがってきています。
隣の国を見てああはなりたくないと克己してください。彼らは慰安婦、徴用工、あらゆるすべてのものを口実に、なけなしの自尊心を維持する肥料に変えてきました。
私たちはそうではないはずです。

 






願わくは、「原爆の悲劇」なる良識を都合良く利用して、気持ちよくなるために
他人を叩くような国民にならないように。

それでも被爆者を捏造するような醜態はさらさないでしょうが。
そのあたりはさすがに日本の国民性を信頼しています。

それでも、社会心理学において、個人の行動を集団の総意に変換して考えるのは人間の基本思考です。韓国などに特化してしまって、そんな姿を他の人に見られるのは恥ですから。
……あるいは、そうしていれば、いつか韓国土着の虚栄から逃れた新しい世代と結びつくかもしれませんしね。
ないけど。イギリス方面見ればわかるでしょ?













最後に、冒頭にて引用した傑作から――その日本人訳者の言葉を借りようと思います。



アンドロイドとは、(中略)"現実"の世界(人間的な関わり合いと感じ方の世界)に接触できなくて、内側に閉じこもり、機械的な生活を送っている人間なのだ。
この新しい観点にたてば、(中略)ほとんど人間そっくりでありながら、人間社会にとっての潜伏的な脅威であることも、決して矛盾ではなくなる。

――フィリップKディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?浅倉久志訳 訳者あとがきより