私、バナナマンが好きなんですよ。
だからもちろんラーメンズも好きなわけです。
はい、この論法がわかった人はコント好きですね?
そんなコント職人として私が敬愛するバナナマン。
テーマを決めてフリートークをするコーナーがあります。
そこでこんなテーマがあがりました。
世間は気付いていないが「バナナマンのココを評価して欲しい!」
そこでさまざまなアピールポイントを自分たちであげていくバナナマン。
「おしゃれな人達から注目されている」とか「バナナマンはどんな番組でも使いやすい」だとか、おおくの自画自賛が飛び出してきました(笑)
コントにこだわっている、というポイントはもう私も何度も何度もうなずかざるをえませんでしたが。
そんなとき、いままで意識していなかったけれど、
ハッとさせられるようなコメントが設楽さんの口からとびだしました。
「バナナマンには品がある」
「"う○こ" とか "ちん○ん"とかいってても
どこかしら品がある。聞く人を嫌な気分にさせない」
これがこの記事のテーマであり、M-1の審査の基準であり、
ネット民の大多数にはけっして持ち得ることのできない基準点です。
なにせもはやこれはハッキリと審査員の口から出ています。
最たる例は、この志らくさんの「和牛」への寸評です。
「ゾンビ」に「殺す」というワードが出てきて、非常に最初は嫌な感じがしたんだけども、全体にものすごく品があるんですよね。品があるから「ゾンビ」と言おうが「殺す」と言おうが、どんなことをしても楽しく聞けるっていう。それはやっぱりお二方が持っている才能でしょうね。
これなんですよ。
今回のトピックス
てことで今回のトピックスはこれ。
いやね、スーマラが評価されるわけがないんですよ。
M-1を見た方はわかるでしょうが、
これに【漫才芸人】の看板を持たせたいですか?という話です。
第一線で活躍するクリエイターというものには品が必要です。
以前、創作弱者はエロとパロに走るしかないという言い方をしましたが、それもこれもなにもかも品性という芯がないからこそ手段を選べないということです。
それは漫才芸人というパフォーマーでも同じ事です。
M-1という「お笑い」の第一線を決める場において、
品のない人間は必要とされていません。
"いちおう"本戦まで駒をすすめたスーパーマラドーナですが、
松本さんに
なんでラストイヤーにそんな暗いネタすんねん
といわれるような結果でした。
まさにこれ、「ジャンプ」という第一線では活躍できないやつが「good!アフタヌーン」あたりに逃げ込むしかなかったようなものです。
M-1は漫画家でいえば"ジャンプ作家"を決める新人賞なんです。
第一線でやれる光をもった人間を捜しているわけです。
個人的ブチ抜きド優勝の栄冠を掲げてあげたい和牛ですが、彼らは「M-1の領域を超えている」などともいわれていますが、まさにそのとおり。ジャンプに適しているかどうかではなく、辺境でもなお"個人の力"で立身した『進撃の巨人』的なコンビなんです。
バナナマンを知っている人はいても、あのこだわりぬかれた演劇型コントの魅力を知らない人がたくさんいて、それが世間的な評価を支えているわけではないように、それが看板として世間に掲げて通用するかどうかはまた別の才能なわけです。
さて、そんなスーパーマラドーナや、舞台にすら立てなかったとろサーモンですが。
まあインスタライブで吠えるというのがいかにも弱者らしい振る舞いでしたね。
第一線の舞台に立てない三流はつねにネットにはけ口をもとめます。
三流にすらなれない素人が表現を許される場がネットなのです。
たとえば同人作家やコスプレイヤーのように、エロやパロをいくら出しても、同じレベルの人間たちはそれを評価します。
しかし本物は評価しません。それがメッキだとわかっているし、なによりも、品を捨てれば低いレベルで注目してもらえることは知っているから。
アイデンティティが似通っている人間は、その下品さゆえに、自分に近い人間だ、自分に近い仲間だと持ち上げてくれているだけだから。
――今回、とろサーモン久保田とスーマラ武智のインスタライブを拡散したファンたちがそうであったように。
でも、それはいちど広い世間に出てしまえばメッキだとばれるわけです。
品のない主張が通用するのはネットや即売会場の中だけ。
しょせん、彼らのファンは"悪い客"だったということでしょう。
彼らも、彼らのファンも、その程度の品を理解しない寄せ集めでしかなかった
というだけです。その程度の芸人にはその程度のファンしかつかないということです。
なるべくしてなっただけのことでした。
たしかに去年の上沼さんのマヂカルラブリーなどへの暴言はひどいものでした。
お昼にやってる「上沼のおしゃべりクッキング」も空気が重く、まったくおしゃべりできない暗い雰囲気で終始進む日本でもっとも陰鬱な料理番組です。
しかしそれでも、すくなくとも上沼が審査員にふさわしくないと考える人よりは、はるかに審査員にふさわしい物差しを持っている人です。
"第一線に立つ品があるかないか"
という基準で、審査員の寸評と順位とを見返してみたらいかがでしょうか。
深夜番組で終わる程度の漫才芸人を決める番組ではないんですね。
……と、まあ、選ばれた理由ははっきりと見えるんですが、それでも笑いというものは個人個人のものです。
笑いとは、共感からの裏切りがすべてです。
不細工なボケが、見る人すべてに「こいつぶっさいくやなあ」と思わせてから、
「ぶぶぶ不細工ちゃうわ!」とさけばせることで笑いが起きる。
これがすべてのメカニズムです。
だから、共感の領域次第では、スーパーマラドーナのようなサイコ芸でも、
クラスで変わり者といわれて省かれがちな人とかには受けたりするんですね。
審査員さんたちは、その共感を俯瞰で見れるほど芸能界にいた人物たちです。
今の時代の共感をえられる最大母数
というものが見えているわけです。
1番現代的で程がいい漫才なんでしょうね。だから会場もひっくり返ってウケてて、あとはうるさ型の人がたとえばお笑いに関係のないようなとんがった芸能人や文化人が食いつくかどうか、というのが勝負でしょうね。大衆はものすごく君たちを支持すると思います。
とろサーモンやスーマラと同じように
ネットで吠えるしかない人たちから得る共感が正しいわけではない。
どうあれ、見る側は、それらを意識した上で、
自分だけのナンバーワンを決めればいいんです。
霜降り明星が1位で納得いかなくても、
それは、あなたの共感のラインがメジャーから少しずれているだけなのですから。
ちなみに私のナンバーワンは和牛でした。あなたは?
それとも、あなたのナンバーワンが世間的にもナンバーワンでないとだめですか?
でも、そんなわがままな考え方は、絶対に共感を得られないんですよ。
だってそれが表に出た結果こそ、今回のインスタライブ騒動なんですから。