全方位に喧嘩腰

無駄な有識者が各業界の裏側から流行のトピックス・ニュース・作品・表現について語るブログ

八王子の中2いじめ自殺が、またいつもの「泣けるいじめコンテンツ」に変わっていくのを止めたい

※元々は11月8日の記事です。姉妹サイトからの転載を忘れていました。
 
 

大学二年生のころに塾のバイトである中学生を担当しました。
生徒の来歴をあらかじめ伝えられていた私が質問したのは
 
「いじめられてたの!?wwなんで!?www
 何されたの!?wwwwwwwwww」(当時の時代を反映した表現にしました)
 
無礼な私に彼女はパニックになることなく普通に答えてくれました。
私は好奇心の塊で、とにかく彼女の心理を知りたくてたまりませんでした。
なにせいじめることもいじめられることもなく育った人間なもので。
根掘り葉掘りいろんなことを聞き出して、「さすがにそれはやべーなwwww」と俺は楽んで聞き、彼女は苦笑混じりだったのを覚えています。
 
それから学習支援や進路相談を通じていじめ問題に触れたことは何度かありました。
 
それでもなお、あのころからずっと、
人間がその程度で破綻するものではないという感覚は変わっていません。
 
 
 

今回のトピックス





というわけで今回のトピックスはこれ!
痛ましい事件ですね。そして、典型的なだけに救いがたい。
せめてこれが史上初の報道なら報われるものもあるでしょう、
しかし事実として大河の一滴なわけです。

そして…以前に安田純平さんの記事で言及したように、
"売れる"カテゴリーとして報道が大々的に取り上げがちなニュース商品のひとつです。

さて次はスポーツです!と流されるやつです。

別に煽ってるわけじゃありませんよ。
報道に意義はありますが、それを肯定することとは別に、これが"売りに来ている"カテゴリーであるということは知らないといけません。
『いじめ』を使って売れる路線というものがあるんです。一例をtwitterのあるツイートで紹介しましょう。
 
この人はなんも悪くないですよ!?
ただ、これが売りたい路線なんです。マーケティングの王道です。
そして次の売り上げを拡大するための「浅い感動路線」
すなわち、反吐が出るような、「泣けるいじめコンテンツ」でもあります。
そうして、ここで生まれてくるのがこういった論調です。
 
 
これがヤバい。RT稼ぎではなく、これをマジで言わされてるからヤバいんです。
自殺した子を主役として、責任を与えるべき敵側を設定する方向性。
「何もしてくれないことは悪だ」と他人主体で考えること。
 
もちろん報道そのものの意義はあります。しかしやり方がマズい。
 
なぜかっていうと、どこにでもある弱い者イジメを
死んだ子を悲劇の主役に見立てていかにも義憤をかきたてる美しいドキュメンタリーに仕立てることで見えなくなってしまう視点がある。
口触りの言い弾劾の言葉では到達できない真実があるからです。
 
 
これがマズいもうひとつの理由は、 

たとえばこのように少年事件、あるいは学校という治外法権
のトラブルを扱うということは、真実が表に出てこないため、
何を言っても反論が来ないということなんです。
だからやりたいほうだい美辞麗句で飾ることができるってことなんですね。






ちなみに今回の報道を通して本当にわかることは、
① 自殺した子は転校後も学校に行かなかったこと
「大会に出たり出なかったりしていた」こと
「学校にいけない自分が嫌い」であること
「だれもたすけてくれなかったな」ということ
の四つです。下の三つは動画の遺書で確認できる文言ですね。
 
④についてはハッキリ言い切ります。
まわりがたすけてくれないからこうなった。最後は他人の力に頼ったんです。
自分を責めさいなみつまはじきものにしたはずの"まわり"に。
この泣き言をどうとらえるかが今回の論点になります。
 
あとは、もともと立場のある子なら家族旅行に行ったところで省かれたりしません
もとからうまくやれてはいなかった部分はあったはずです。
それでもなお"まわり"ばかり見ていたちぐはぐさがすべての元凶です。
 
 
 
え? もとより部活の拘束性がまちがっている……?
こんな自由が認められない環境はおかしいって……? お前りゅうちぇるか!?
ブルース・ウィリスの娘の爪の垢でも煎じて飲んでろ。
 
 
りゅうちぇるの件は、結局、世間の常識に対するバランス感覚の無さと、
そのくせ世間に歩み寄ってもらいたがってる押しつけがましさが問題なんですよ。
同じく夏休みの練習中に旅行に行くことも一般的な常識と比較してマイペースだと言わざるをえません。まあこれについては後々詳しく言及しますが。
 
ただ、部活のありかたは勝手に議論していてください。
大事なことではありません。

私が言及したいのは、『転校後の不登校』の件ですから。

だって、死んだのはいじめから逃れた後なんですから。(LINEの事は勿論後で言及しますよ)
そこで人生を巻き返せたはずなのにできなかったのはなぜなのか。
これは典型的でありながら、報道されるパターンとしては珍しいケースです。







さて、この記事の方針かつ結論ですが。
いじめを無くすことは100%できます
外見的に生まれながらハンデを背負っている人だろうがなんだろうが。
しかし、個人レベルでのみというだけです。
学校や社会や組織でも、家庭でもなく個人レベルです。
 
そしてブログの序文でいったように本ブログの運営方針は
時代遅れのブログだからこそできる
マーケティングの視点をかなぐり捨てる方針
にあるので、真っ向から正論をぶちまけていきたいと思います。
 
"転校後の不登校"ではなく"いじめ"にばかり注目する優しい加害荷担者たちと、動画からでさえわかる親の問題点ぶっ叩く路線なので、この"泣けないカテゴリー"を買うつもりがなければさっさとテレビやSNSyoutubeに逃げてください。
 
 
"「いやぁ、うち夏休みは遊びにいきたいから、部活よりクラブの方がいいんだよね」
と自分の意見を言える子なら攻撃されたりなんかしませんでしたよ。"
↑ラストにはこんなこと言うような記事ですから。ね?
 
 
 


 
ともあれ、段階を踏んで説明しないといけないことなので、
ここにこうしてリストをつくってみました。
 
 
 
いじめを無くす視点を手に入れるために知るべきものリスト
 
① いじめられることには当然理由がある
② いじめられっこが可哀想な人とはかぎらない
③ いじめられる人はいじめられる人であり続ける
④ 他校でも不登校になった理由は優しい人たちのせい
⑤ 無知な善人に踊らされずに自分のための知恵を持て
 
この5ステップです。
それでははじめます。まずは一つめ。
 
 
 

 いじめに関して理解するべきこと

①いじめられることには当然理由がある 

これを説明しなきゃいけない時点でかなり詰んでます。

考えてもみてくださいよ。
だって……ゆづゆづですらいじめられていたのに?
フィギュアスケートの羽生弓弦さんのことです。
リアルシンジ君の降臨とかsyamuさんみたいなことを言う人たちが群がる
日本を代表するヒーローの一人ですね。
そんな人が理由もなくいじめられるわけないじゃないですか。
 
 
いじめられた人を見れば、ああこれはいじめられる人だなって
ちゃんとした経験を経てきた大人ならぜったいにわかります。
 
たとえばそれは愛着障害によるコミュニケーション障害ゆえかもしれないし、
自閉症スペクトラム障害による協調性の欠如かもしれない。
家庭環境の複雑なハーフゆえの劣等感からかもしれない。
当時人気絶頂だったアイドルがいじめの過去を吐露することが様式美であるように、
鼻につく上に世界観が違いすぎるからかもしれません。
ときに周囲に迎合できない哲学を持っている人かもしれない、ゆづゆづのように。
先輩に優しくされて良い気になったから同性から目をつけられたかもしれないですね?
いずれにせよ理由はあるんです。痛いと思われる理由は。
 
そして
理由をつきとめること=被害者の自己責任を追求するものだ
ということではありません。
他人は自分をうつす鏡なんですから、そこに被害者がいじめられた本質があります。
そこからおもちゃとして遊ばれることに発展するのは意味が違います。
 
そして、いじめられる人は、かならずどこかで一度はいじめられます。
 
だから、正確には100%いじめの再発防止はできるです。
しかしそれは一度目さえもいじめだと捉えないことでたどり着ける領域です。
 
 
 

②いじめられっこが可哀想な人とはかぎらない

 
 
そうやって人の愚かさばかり見る、キミの生き様に光明はあったかい?
 
仮にいじめの主犯格が複雑な家庭環境によって人格破綻を起こした人だったとしましょう。
 
でも、いじめというものは。
特定の集団社会の中で特定個人に攻撃を加えるということは。
その集団の中で自分の仲間がいたり立場があって安心感があるからできることなんですよ。
同じ集団の中に立場がないからいじめられる人はいじめられるんです。
だからやる側は、安心してそれを楽しみにすら変えられるんです。
会社の新人いびりとかってそういうことでしょ?
 
加害者の動機をいくら哀れんでも、権力者の方が強いんですよ。人格破綻者だろうとも
反撃されないからいじめられるっていうのは、そういうことなんです。
腕力の弱さや身体的ハンデや、あるいは気弱な性格だからでさえないんです。
 
いじめる側に回ることのできる人間は、
その集団のルールを牽引する力を持った人間です。
部活の最上級生がそうであるように。そしてそれは"悪"ではありません。
そしていじめられない子は、「その場」のルールを守っているということです。
 
 
しかし、自殺した子の親は娘を『規則を絶対守る生真面目な子だ』と評価していました。
『大会に出たり出なかったりし』て『練習を旅行で休む』ような子に。
これは後々響いてくる重要な事実です。
 
 
 
 

③いじめられる人はいじめられる人であり続ける

いじめは立場を持っている人によって行われます。
その場のルール・マナーを熟知し
その場でチームワークを確立している人間が起こすものです。
 
それに合流できない人間がいじめられるんです。
足並みを外してしまったから省かれるんです
失うもののない無敵の人が起こす通り魔とはちがう、
特定の集団のルールにしたがって行われるチームスポーツのようなものです。
あるいはボーンヘッドかましたことによるベンチ裏のペナルティです。
法的に見て正しいかどうかではなく、必ずルールを違反した人間にそれはふりかかります。
あるいは成長して美人になりすぎて、仲良しグループの美醜のルールを破るかもしれません。しかもそれを鼻にかけるように見えたかもしれません。そういう広義の話です。
 
 
そして、新しい環境に逃げるということは、
新しい環境のルール・マナーを熟知し
新しい環境のチームワークを確立している人間の中に飛び込むってことです。
 
 
 
ルールを破る人間は、その欠点をトレーニングで克服しなければまた戦犯になりかねません。
だから私はそのことも教えてあげずに「学校から逃げろ」とかいうやつ
完全にいじめられる側の奴の発想だなと思ってしまいます。
 
もちろん学校の卒業まで耐えたところでおんなじですよ。
その人はその人であるかぎり、仏教の教訓がそのように言っているように、
同じ試練と常にぶつかりつづけます
 
そして、たとえ逃げなくても、
何もしなければ同じことが起きます
 
いじめられるということは、ある意味で、
その場のルール・マナーその場のチームワークと接点を持ち続ける事でもあります。
いじめられている人間はそのことを肌でしっかりとかんじとっているはずです。
 
いじめを辛抱強く受け入れていれば、いつか集団に癒着することができるしれない。
そんなふうに思って、何もしないまま、いつか集団の末席につけることを願って
視野狭窄に陥ったまま、おもちゃにされる人もいます
 
ゆづゆづはそんなところの末席につく必要がなかったから
自分の意志でスケートリンクの上にいます。
 
 
このように、いじめ報道の感動ドラマ路線によって
「いじめ=不運」「巻き込まれた子=悲劇の人間」
を意味しはじめてきた現代、その言葉にすがることはあまりに危険です。
いじめにはこうした共通不変のメカニズムがあることを見過ごします。
 
 
 
 
 
 
 

④ 他校でも不登校になった理由は優しい人たちのせい

 
ここからが本番です。
 
昨今、「いじめ」という社会問題に対する環境整備や、
現場への問題意識徹底、ソーシャルワーク人員の配置は着々と進んできました。
そうして今や彼らはいじめという問題に対するホットラインを快く開いてくれます。
対応事例も増え、「いじめ」に対する転校措置もスムーズに行われるようになりました。今回の事件でもそういった対応が行われたように。
 
しかしステップ3で語ったように、ただ場を移すだけでは何も変わらないんです。
本人が集団のルールに対してどう向き合うかが問題なのですから。
そして、いじめの社会問題にたずさわる人々は、ただの他人ではなく、プロの身内です。
はじめから救い手として親身に接してくれる、他人ならざる善人です。
 
プロの善人だからこそ彼らは被害者がいじめられた理由を口にしません
あるいはそれを一緒に見つけようともしません、だって、その人が傷つくから
彼らはプロの身内、いじめ被害者すべての理解者ですそして次の被害者が待っています。
けっしてその人が抱える問題そのものを指摘する職種ではない。
 
優しい人に手を引いてもらって幸せな世界を目指すということは、「自分のふるまいはどこかおかしかったのかもしれない」という自覚を捨てる危険性もはらんでいます。
 
そして、本当の自分と向き合うためには、無責任な他人と向き合う必要があります。
味方を通じては自分のことは見えません。いじめっこ自身さえそうじゃないですか。
他人こそが自分をうつす鏡ですから。
 
 
 
 
たとえば。
性犯罪被害者が警察に「そんなふしだらな格好して歩いてるからだよ」と言われます。
事実です。
あるいはそんな格好をしてなくても「夜中に若い子があんな所歩いてるからだよ」。
それも事実です。
彼女はそういうことで狙われたのは事実です。かりに『不運』の部類が大きい犯罪だったとしても、不満に思って唾棄することは違います。
それでも露出の多い服装をつらぬくならばスタンガンを忍び持つのもいい。歩く道を変えるのもいいし、送り迎えを頼むのもいい、夜中そんな道を歩くのがだめならフェラーリをかっとばすのもいい。
何もせず同じ道で同じ格好で同じ被害にあったら、それが二度目であれば、後悔するのは自分です。なぜ自分が責任を追わなければいけないのかと嘆き続けていた時間で、「男の腕力でやりかえされたときの方策」など重要案件を少しは掘り下げられるはずですから。

あるいは「警察が何もしてくれなかった」と泣き言を言うかもしれません。そこに救いはないのに。「学校が何もしてくれない」からしてくれるのを待つのは違います。
 

しかも、いじめは不運では起きません
場のメカニズムによって発生する必然的事象です。
だからこそ、呻吟しながらちゃんと学習さえすれば次は避けられます
 
ただし。
ここに一つの問題があります。
 
いじめのきっかけはどうあれ様々な口実によって攻撃が行われる場合もあります。
たとえば「臭くなくても『臭い』と言う」ような悪口のための悪口があります。
 
だからこそ、
いじめられた理由は本人には届きがたい。
これがいじめられる人がいじめられ続けるもうひとつの理由です。
 
 
 
それでも、理由を知れば「いじめられっこ」は戦う力を持つことができる。
しかし理由をしらなければ、「いじめられっこ」は戦うことさえできない。
 
これがどれほど怖いことか例えて説明します。
 
 
 
あなたは実家暮らしの小学生です。
朝起きて顔を洗ってトーストの匂いのするダイニングに行きました。
そうしたら席につくまえに親に殴られました。
朝食の味はせず、親の顔色をうかがってもずっと睨まれるだけ。
話しかけても返ってくるのはふだんの素行についての重箱をつつくような不平不満。
でも学校からかえってきた夕飯では殴られることなく、ほっとして就寝しました。
でも次の朝の食卓でまた殴られました。
次の朝も、また次の朝も。
 
それでもダイニングに続く扉を開け続けられますか?
 
でもそれを見ていた神様が「おはようって言わないからだよ」と
しっかりと正確に教えてくれたら?
 
あなたはすくなくとも選ぶことができます。
自分を反省し、ダイニングの扉を開けて大きな声で「おはよう」と叫ぶか。
それとも、
ヒステリーの親を見限って、玄関から飛び出すか。
 
 
ただしここにもう一つの問題点があります。
この二つの選択肢では解決しない本人の問題があったら。
 
あなたはけっして意思疎通の上手な子ではない。いやそれどころか、
発声に困難を抱えており「おはよう」という言葉さえ上手にできないことが
生まれてからずっと親に忸怩たる思いを抱かせてきたかもしれない。
近所付き合いの中でママ友仲間に嘲るように指摘され、
それが劣等感になったことがきっかけで、今回の理不尽な対応に及んだのかもしれない。
大声で上げた「おはよう」という奇怪な絶叫は家庭内暴力を発展させるかもしれない。
 
それでも、それが身近な世間と衝突するトリガーならば伝えてあげるべきなんです。
伝えてもらえなければ、永遠に世間の壁にぶつかり続ける異人として生きることになります。
 
もちろん現実に神様はいません。
だから、その子は家庭内における育児の限界点を超えて、
児童相談所を通じて新しい家庭へと移されることになりました。
新しい家族は事情を知っているし、定期的な所員の訪問も約束されている。
だけど本人には「なぜ捨てられたのか」の詳細はもちろん伝えられていない。
伝えられないまま、自分が何かとすれ違っているという実感を持ったまま来てしまった。
 
朝起きて、顔を洗って、ダイニングのドアノブに手をかけて。
実の親に殴られ捨てられたのがなぜかもわからないまま、
その気持ちさえわからなかったのに何も知らない他人の待つ新しい世間へと届くドアノブを。
心の強さ程度で回せるものではないんですよ。
 
 
 
 
だから、いじめられた人間の多数は他人との接点をもちがたくなります。
あるいはそれは不登校という形をもって
 
自分がどんな人間かわからないから。
どうしていじめられたかわからないから。
でもなんとなくはわかっている、自分に原因はある
 
それでも周りが、「あなたは悪くない」「あなた以外の他人が悪い」と優しい言葉をかけるから、わけがわからないまま、この世界には不条理があるんだという結果しか残らない。
 
 
理由もなく虐げられるような世界で生きていきたいと思いますか?
 
 
 
 
いじめの理由をどう伝えるかは難しいし、
それを知ることは「集団」に属する人間にしかわからないものです。
重要なのは、いじめた人間は無関係の人間には軽く打ち明ける傾向があるということ。
「あいつ、自分のカンニングを俺になすりつけるようなことを言ったんだ」とかね。
鍵は「部外者」であり、「集団に属していた人間」だと思います。
 
冒頭の動画で、
「学校に行けない自分がキラい」と自殺した子は言っていました。 
「めんどくさい子」という文面もありましたね。
 
つまり、それが仮に悲劇に酔いながら出てきた言葉だったとしても、
この子は自分の非通常性に気付きかけていたことはまちがいないなんです。
 
自分を客観視しかけていたを今は感動ドラマの道具に仕立てられています。
「泣けるいじめドラマ」の主役として。
 
 
いずれにしろ冷静な部外者が本音をぶつけあわなければどうしようもない部分なんです。口をつぐんではいけない部分なんです。
だれもかれもが理解者を気取るのではなく、『他人』が必要とされています。
 
 
 
 
 
 
 

⑤ 無知な善人に踊らされず自分のための知恵を持て

 
いじめられる人は特別です。
ゆづゆづのように新しい集団を制圧するほどのカリスマ性と能力を持っているなら、正攻法の大逆転もあるでしょう。むろん無理ですね、平凡な特別な人には。
 
しかし、そうでなくとも、幸運な他人と出会って
自分がどういう人間なのかを知れたのであれば、対策がとれます。
そうして「特別な自分を知るからこそできること」が見えてきます。
 
 
選択することです。
 
 
もっとも理想的な選択は、
<足並みをそろえられるかぎりそろえるように努力しながら集団とつきあっていく>
ですね。それは自分の歩幅を知っていればできることです。
これでもう世間と衝突せずにうまくやれるなら幸運です。

あるいは
<自分を変えるために徹底努力する>
この例はラストに示そうと思います。
 
 
 
むずかしいのは、「今はそれはできないかもしれないな」と感じたとき。
「しばらくは自分なりの生き方でいくしかない」となったときです。
 
つまり、<主流をはずれることを覚悟する>となったときです。
 
 
 
 
 
 
"いじめは立場を持っている人によって行われる。
その場のルール・マナーを熟知し、
その場でチームワークを確立している人間が起こすものだ"と言いました。
 
同じように。
 
いじめの被害者がいじめられていても、学校に行かなくてはいけないのは
 
"家庭のルール・マナーに従い、
家庭でチームワークを確立しているから"です。
 
いじめられっこは
家庭というチームワークの末席として
自分で自分をいじめるんです。
 
遺書にもありましたよね?
「お父さんは学校に行ってほしかったよね」って。
 
 
 
 
わかりますか?
最終的にいじめの被害者が真に戦う相手は
家庭を優先して自分を迫害する自分です。
そして主流を外れるとき、その主流を決定していた
家庭の方針と戦わなければいけないときがくるということです。
 
 
しかし、そこにこそ希望はあります。
そこに打ち勝ちさえすれば、いじめは発生しません
 
そしてそれと戦う方法は、
自分がいじめられた理由をしっかりと知り、それにどこまで折り合いをつけて、
最後には家族の方針とどう戦うかってことなんです。
自殺は迫害の延長です。自分の頭で考えることをやめたから転校してもなお死を選んだんです。
 
部活のルールにてんで歩み寄れなかった娘さんを親御さんは
「生真面目に規則を守る子」
と評していました。それは家庭の集団のルールを守っていたという意味でしょう。
そして辛いそぶりを見せないという形で対話を放棄した。
だから自殺しました。 
 
 
 
今回の報道でわかりきっているいじめの原因がもう一つあります。
ですよ。
練習を休ませて旅行に連れて行ったのは親です。
 
 
この件で、経験則的に見えるものがあります。
親はもちろん生計をたてられる大人だから自分勝手を自力でカバーできる。
ただ、それに子どもを巻き込むことはバランス感覚が欠如していることに間違いないんです。
 
スーパーの行列を都合良く離れて、あとから戻ってきて『入れてよ』なんて、
よほどの立場がないとできないことを平気でやってるんです。
極端な話じゃない。りゅうちぇるみたいな甘えはやめろ。
 
すくなくともこういった態度を日頃からとる親のもとで育ったのなら
とらざるをえない生活をさせられていたのなら、
自殺した子もバランス感覚が欠如していた可能性は多いにあります。
そしておそらくこれは間違っていません。
 
大会に出たり出なかったりして、部活で立場を持つことは絶対に無理です。
どうしてそこにいるんだという異物であることに普通は気付きます。
 
自分の都合でふるまって、都合が悪くなれば周囲に足並みそろえてほしい。
そういう他者への無意識な過剰期待と常習依存の傾向があったのかもいれない。
親が周囲と連携するバランス能力が高くないことは、間違いのなかったはずでしょう。
そんな親を見ていたのなら、子どももそうである可能性は高いのです。
 
あるいは見方を変えるべきかもしれない。
 
「周りが助けてくれなかった」という遺書に見る他者依存も
「ちゃんと私たちの相談を重く受け止めてくれて対処してくれたらよかった」
という責任の見いだし方も、
「深く悩んで1人で抱え込んでいたと言ってくれなかったのか」と一つ屋根の下で不登校であったはずの娘への感想を実の親が述べたことも、
いじめ問題の解決にのりだしていた学校の両者和解の提案を打ち切ったことも、
縁を切って転校したはずの学校に責任追及の一報を叩き込んだことさえも。
 
たとえば旅行の時、部活を休もうというときになったとき、 
あるいは、親と子どもは学校の件について話しあわなかったんでしょうか?
それとも、話し合ってそれでいいやというのが親子の結論だった?
いままでも出たり出なかったりしていたから、それが当たり前の家庭だったから?
家庭の外のことは無視することが当たり前だったのか
 
 
親に悩みを打ち明けない、そんなそぶりも見せなかったと言うくらいに対話しなかったのは、親を傷つけたくなかったからなのか、それとも、言葉にできなかったのか、あるいは、言っても無駄だと思ったのか、そこまではまったく予想はできません。バランス感覚の変な家庭ですから、娘さんがどこまでそれを自覚できていたのかは不明です。
 
 
結局、わざわざ方針にあわない集団のなか
我が儘をつらぬいたこと、つらぬき続けていたことは事実です。
 
でもこれ自体の真偽はいいんです。
この仮定を理由に話をすすめるつもりもありませんから。
仮に親に問題があろうがなかろうが、出る結論は何も変わりません。
 
 
 
 
 
 
たとえば、自殺した子は、
いじめられて不登校だけど塾に通って受験するような子がいること
は知っていたんでしょうか。
そうしてその子が立派に大学に通っていることも…

学校には行きたいといっていましたが、
学校に行かなくていい道とくらべてどうだったんでしょうか?
今となってはわかりません。
 
塾通いの子は今はそういう生き方しかできない」と覚悟した上でやっていました。
 
ひとりよがりで楽できる方に逃げて逃げつづけて、その先に運良く優しい人がいたら、
その人に依存する。そんなことをくりかえしているのではメンヘラと同じです。
 
しかし、さまざまな知識をもって世間を知り、進路を見比べれば、
いつか自分なりの進路があるということも見えてくるはずなんです。
選択するというのはそういうことです。
「自分を変えない」まして「変えられない」のなら
知恵をつけなければ他人に迷惑をかけるだけです。
 
 
 
……
 
そりゃ大半の親は井戸端会議で当たり前のように
経歴をのべられるような子が欲しいに決まってます。
それを快く受け入れていれば、親をがっかりさせることはない。
 
でも、そんなふうに思って、何もしないまま、ずっと末席についていられることを願って、視野狭窄に陥ったまま、理想の子どものままでいられるかどうか
それができるかどうかはその子ども次第です。
 
子ども自身ができないと感じたら
たったひとりで親とさえ戦いをはじめるべきなんです。
そのために知恵をつけるべきなんです、自分をいじめる前に。
 
頭が悪いからいじめられるという言い方はあまりにも残酷ですが、
頭が悪いままでは自分をいじめることしかできなくなる
人間がいるのも事実です。視野を広げる必要があります。
他人には自分の感性は奇怪すぎて伝わらないかもしれないから。
 
規則を絶対守る子がいた、実際にそれが今回死んだ子です。
もしもその規則が間違っていたら自分で判断するしかないんですよ?
世間と乖離するその規則は、社会全体という集団のルールを破る可能性さえある。
 
私は、自殺した子が、転校後でさえも、
LINEの通知を確認し続けていたことも気になります。
ステータスメッセージに悪口を書かれてそれを見て落ち込んだってことは、
友達一覧に自分をいじめた子たちを残し続けていたってことですか?
いくらなんでも集団への接し方が不自然過ぎる。
 
それに、親に向けた遺書ではじめて部活が理由だったと述べられたということは、それなら今まではなぜいじめられたのかだれもわからなかったということですよね?
 
問題解決に学校が動いて、当事者が謝罪して、転校して、本人はその間もずーーーっと黙っていた。
それをして「 だれもたすけてくれなかったな。」 という思いを抱えながら。
まさか、何も言わないで気持ちを察してくれると思っていた?
学校が怖い怖いといじめられた理由と向きあうことなく怯えたまま、不登校を理解して欲しい理解して欲しいと居もしないもしないだれかに願いを託しながら。
 
これほど他人任せな思考停止私は「悲しい」という感情を持つことはできません。
 
 
 
 
ああ、ちなみに身体をデカくしたり武術をならってもたぶん無駄です。
孤独なままでは「補導」や「退学」といった、社会集団からの逸脱まで覚悟しなければ発揮されませんから。
むしろ道を外すどころか、それでも「何も変わらなかった」かもしれません。相手によっては殴り合うことで集団の一員に認められるかもしれませんが。
しかしやはり知恵こそが確実な武器です。
 
学校にうまく通えそうにないなら、保健室の遅刻と早退をくりかえすようなスタイルでもいい。おかしな生活でも、自分の性格さえ見定めていれば耐えられます
自分に合った生き方とは、どこかの集団に肩代わりしてもらうことではなく、自分の案配で適したグループに近づいたり離れたりをくりかえし続けるということなんです。
そのバランス感覚を養えなければその人はいつかまた排除されます。
知恵さえあればその正しい指南役を見つけることだってできます。
 
 
追い詰められた子どもにはそんなこと無理?
いじめポルノにわめいてるだけのお前が何してくれんだよ。自分でなんとかすんだよ。
 
 
 
……もちろん
自分なりの生き方をいつまでも他人から許してもらえると思ってる
甘えたやつはまたいつかかならずいじめられますけどね。
 
世間と自分の距離感を知れ。ってことです。
 
また集団に合流するとき、
自分を律せるような年相応の知恵を得られていなければ…
ただの年をくっただけのおおきなこどものできあがりです。
社会人の自殺が報道されない理由はそれもありますよ、もちろんね。
 
 
自分の世間とのバランスを認識していれば、適した集団を選ぶことができる。
虚弱体質の肥満老人がスポーツインストラクターを志すのは自己認識が甘いのは当然。
 
同じように……まさかこんなことになるなんて思っていなかったにしろ、親のバランス感覚をつらぬくならば部活より休みの都合が付く民間のクラブが一番合っていたのは本当なのですから。
 
 
「いやぁ、うち夏休みは遊びにいきたいから、部活よりクラブの方がいいんだよね」
と自分の意見を言える子なら攻撃されたりなんかしませんでしたよ。
 
 
 
 
 

最後に。
三者ができることは、
「泣けるいじめ」を消費するだけではなく、
いじめられる理由を冷静にケーススタディしてあげることです。
そして、関係者たちが事後に授けられる知恵をもっとつけること。
 
不運=いじめなのだとすれば、その原因と理由をはっきりさせたとき、
いじめはその人の人生のテーマにすがたかたちを変えることができるはずです。
 
 
 
 


かっこいい……。













[閑話]
いじめられた子の逃げ場を作ろうってことに関してホームスクールのような制度が日本にあればなって思ってる人はいると思います。それ、実は日本では通信教育の制度をうまく使えば擬似的に実行できるんですよ。そういうシステムつくってみたいですねぇ。 

[閑話2]
私は前の「児童書」の記事で言及したようになにかとキッズとの接点の多い人生です。
野獣先輩のアイコンを使って深夜までLINEをするような子たちの実態は
言われるまでもなくわかっています。そこで罵詈雑言が飛び交っていることさえも。
ぶっちゃけそれを見て私も爆笑してますけどね。
それで一言いえることがあれば、LINEは集団生活の延長に過ぎないので、
そこに原因はなにひとつありませんよ。