全方位に喧嘩腰

無駄な有識者が各業界の裏側から流行のトピックス・ニュース・作品・表現について語るブログ

『赤松健には優秀なブレインがいない』現役作家兼経営アドバイザーが考える、"0円タクシー"に見る出版業界(漫画業界)逆転の一手はこれだ!【漫画村論争】

現役作家兼経営アドバイザーとは誰かって?

すまんな、また私だ。

いろいろやっててすまんな。もちろん嘘松だ。

 

ちなみにゲームクリエイターの記事でもそうでしたが、私がどこの所属で、どんな作品関わったかに関してはいっさい明かすつもりはありません。

だって、SNSでよく見られる悲劇のように「作品が好きだったのに作者を見て幻滅した」なんてなったら嫌でしょう? 私だって嫌です。幻滅されるのはわかりきっていますから。

それに……

SNSでRT稼いで猿山の大将気取ってる作家のように哀れなものになりたくないですからね。

 

私自身は受賞歴も映像化歴もあるんで、そこそこの職業作家だとは思ってくれてかまいません。もちろん嘘松だ。

 

 

 


ところで昨日報道されたこのニュース、みなさんはもうご覧になりましたか?

 これ、びっくりしましたか?

私はしませんでした。ニュースを見た五人に一人は「やっとか」という思いはあったと思います。なにせ、個人が広告費で生きていく時代ですから。

次は協賛企業に帰属する無料スマホサービスでしょうね。 

DeNA』といえば、ただのソシャゲ・SNS運営会社のイメージから、NPB球団の運営の成功によって一躍事業者としての格を上げた現代の成功企業です。

『横浜DeNAベイスターズ』という、業界のしがらみと対峙し、自治体や関連企業と折衝しながら、一年の2/3において毎日数万単位の客を相手にする一大事業を成功させた功績は桁が違う。高田元社長の地域団体の趣味的経営とはレベルが違います。これによって社会的"信用"を勝ち得たDeNAにしかできなかったのが今回の0円タクシー事業です。資本のあるなしではありません、これをなしえたのはひとえに国内の"信用"です。

 

 

 とはいえイデアそのものは誰にもありました。 

私にもありました。だから、私がずっと考えている

出版業界再興のアイデア

も「間違ってはいないんだろう」という確信めいたものを感じました。

そこで、このアイデアを気まぐれに披露してみようかと思います。

スクエニの記事ほど真剣な内容ではないので、暇潰しにでもこの戯れ言をお聞きください。

 

 

 

 

 

 

今回のトピックス

 

てことで今回のトピックスはこれ。

まあこの記事自体、筋違いの前提があるんですが、

それはおいおい言及するとしましょう。

 

今知っておいてもらいたいのは、

・出版業界全体の規模が減少している

・コミック業界が特に縮小傾向にある

・電子コミックのシェアが拡大している

という三点です。

つまり問題点はコミック――すなわち、漫画市場です。

ここを救うことが業界全体のプラスになります。 

 

 

出版業界を救う方法とは?

答え:連載中の漫画の"既刊"無料化

 

ともあれ、出版業界を救う一案が私にはあります。

0円タクシー、漫画村のメソッド、そして電子書籍を絡めた方法です。

それは、

現在連載中の作品の既刊を電子上で無料化すること

すなわち、『既刊0円サービス』です。 

 

こんなアホみたいな結論にいたった理由を説明していこうと思います。

 

 

 

理由その1: 活字は問題ない

ときに出版業界において、私の主戦場でもある活字はあまり気にしていません。

コミックにくらべて市場規模は小さいですが、もともと活字はそれなりに頭の良い人が求めるものです。長文をたれながしている私の記事を読もうとする人がそこそこ頭の良い人なのと同じことです。短く効率的(役立つ)なものを売るといういかにも、アホにものを売るマーケティングは完全に捨てている方針なので、それくらいは自覚しています。

客を選ぶものであると同時に、活字書籍の間口は非常に広い。近年では映画化もされた『火星の人』のように、

ネット上の洗礼を土台として、初期ロットの消化を見込んでから『出版』に至るという、コミックとは違って『完全実力主義』の体制が出来ているため、クオリティそのものは今後上がってくるものだと思います。特にアホは読めない、読まない、語れない、評価できないのが活字なので、これは弱さと同時に強さです。

異論はあるかと思いますが、日本の場合は小説家になろうなどがありますね。これらはもともとあったサイトですが、アニメ化もした『ソードアートオンライン』『アクセルワールド』の作者の川原さんが電撃文庫の元名物編集者・三木一馬氏が先駆けとして行ったモデルによって爆発的に火がつきました。

川原礫 - Wikipedia

そして、魅力が確固たる作品は結局メディアミックスに到達します。その部分で、加速します。まして、漫画にさえなるんです。そもそもこの走りは『ケータイ小説』です。昔からある強みなんです。

しかしコミック、「漫画」はそういった単純な図式はあてはめられません。

 

 

 

 

 

 

 

理由その2:新作を出せない漫画業界と漫画家

 

出版市場から減少しているのはコミックです。 

コミック、すなわち、漫画はなぜ見捨てられはじめているのか?

たとえば、「○○な○○さん」とか「○○は○○すぎる」とか、

ブコメでさえない、ツイッターお絵描きの人たちがRTを稼ぐのが限界だったレベルの性癖露出ものをかつぎあげなければいけないほどレベルがだださがっているということもある。メディアミックスしたときに、こういった作品はニッチな市場だったことはだいたいばれてますよね。みずから共有を生み出すのではなく、みんながほしがっているものをそのまま出せば必然、それが表現の場であればあるほどくだらないものになります。

かつての日本のドラマが女性向けの恋愛ものばかり出しておちぶれたように。そうであったのと同じく、アニメやコミックが、女性向けや、"二次元さえあればいい"オタクの恋愛脳に合わせてどんどんおちぶれつつあるように。

実際、アニメ化ブーストをかけた漫画が私の活字より売れていないケースはあたりまえになってきました。なかでもいちばん売れてなかったのは競女でしたね。あれはひどい(笑)

 とはいえ、これは個人の感想です。絶対間違ってはいませんが。

 

しかしもっとも問題なのは、

コミックは才能の露出に時間がかかるといった面があります。労力と時間を必要とするものなんです。

私のように文筆をメインとしていると、センスの強みは文筆側にある。私自身絵も描くのでその労力自体は理解に難くないですが、摩耗の速度と、挑戦の機会が非常に限られる。この記事をおそらく5時間程度で仕上げるだろう私の場合、本は一週間あれば一冊書けることもあります。二冊同時に進行するということもできます。

 

しかし漫画家の場合、一本のラインにかかる労力が半端ではありません。プロット、ネーム、下書き、ペン入れに打ち合わせなども入ってきます。

漫画家ばかりがガタガタと苦労を騒ぎがちなのもこのせいですね。

 

また、日本の漫画業界を牽引してきたものが週刊・月刊誌であったため、彼ら漫画家には連載というくびきがあります。その宣伝力と、打ち切られさえしなければ収入のメリットは大きいですが、もちろんデメリットはそのぶん大きく漫画家に負担をかけます。

 

書き下ろしをメインとする作家は、楽ではないですが、頭脳労働がメインです。一行に何日も悩むということがないわけではないですが、なにより締め切りの期間が長く、最悪ないこともある。映像化も基本は他人が勝手にやってくれます。これは漫画の原作家の場合もいくらかあてはまります。

 

連載をメインとする漫画家は、スケジュールに組み込まれ、労力の多くを週刊・月刊に注ぎ込まなければいけない。これは、原作つきのなぞり屋もふくみますが、そっちに関しては、しかたないです。絵しか描けないのだから、それはブルーカラーとしてあきらめてもらいたい。

 

そして、なにより、漫画家の最大の特徴。それは、

続きものをずっと描かなくてはならない

ということ。

 

ラノベ作家でさえ最低でも三ヶ月(ターゲット層は毎月のように買えないための方策)感覚ですが、コミックの場合、それ以上のスパンで新刊が出ることになります。

これは職業作家としてはいい面もあるんですが、出版業界全体で見たとき、ある一つの原則が影を投げかけます。

 

続きものの新刊の売上が、既刊を超えることはない

 という原則です。

 

続きものは、前のお話を読んでいる人が続きを買うもの

というごく当然の理由で、売上は常に前作を下回ります。そこで考えてみてください。

 

人気作品をとにかく長続きさせようという

昨今の編集の方針を。

 

なぜ活字が問題はないのか? そもそもの理由はここです。

次から次に新作があらわれるから。

 

 

 

 

理由その3:漫画村は成功だった

 

コミックといえばやはり『漫画村』。

一時期、『漫画業界』を揺るがす巨悪として扱われたあの"メディア"。たしかに許諾を得てもいないのにそれを成すのは問題があったかもしれない。

 

しかしそこに需要を見抜けなかったのは既得権益に拘泥する古い人と、労力の対価を欲しがるブルーカラー感覚の漫画家のせいです。

 

かつて第一線のラブコメ作家だったが成熟とともにその感性が失われて一介の運動家として生きる道をみいだしてしまって悲しい赤松健はそこに目をつけました。

赤松健 - Wikipedia

それが漫画図書館Zです。

しかしやり方がまずかった! 仕組みだけを真似して、旬の過ぎた毒にも薬にもならないものを皿にもってしまっていた! 古い漫画に広告費の価値はないんです!しかも普通に金とるし。

作品は鮮度が命です。時の洗礼を受けた名作はあれど、それらは出版者が権利を手放さず、新装版という形で世に送り出します。

 

漫画村はタダでした。

しかし、タダほど高いものはない。

漫画をタダで買う場合、読者が売り渡すのは時間です。

そんな大事なものを、時代遅れな三流作品に割くわけがない。漫画村のスムーズなUIがやたら評価されたのは、無駄な手間(時間)をかけずにすむからです。

効率を考えるのはバカの証ですが、そんなバカたちだからこそ「つまらない」と思ったものはすぐ切り捨てるんです。

 

漫画村が成功したのは、なによりもまず、

第一線の漫画が、無料で見られるからです。

 

むしろ弱小漫画家こそ稼げるのが、既存の出版業界です。

先人が漫画家をうまく回すことができるようにつくった仕組み。

そもそもそのバリアフリーにさえ乗れない人たちがよりあつまったところで、ひとつずつ作品性を見定められるような場に来て生きていけるわけないでしょう。

 

 

 

 

理由その4:利用費代行サービスの先駆者たるテレビメディアの例

 

テレビメディアは世界で最も成功した媒体の一つです。

なぜ成功したのか?

 

無料だったからです。

テレビというものが、広告主に料金を肩代わりさせる仕組みをもった

0円タクシーよりもっとはやく存在していた料金代行サービスだったからです。

 

だからこそ0円タクシーもアイデアそのものは「驚くべきことではない」んです。いつかだれかがやることは決まっていたことなんです。ただ、それがあなたや私ではなかったというだけで、社会の仕組みさえわかっていれば、だれもが思いつくものなんです。

 

 

しかし、テレビがもし無料ではなかったら?

 

番組ごとに単価が設定されるような媒体だったら、

見たい番組をいちいち買わなければいけないものだったら、

ここまで繁栄したと思いますか?

 

もちろん答えはNOだし、ネットの登場とともに即死していたと思います。

せいぜい放送局単体のPPVが限界でしょう。現代ではネットフリックスです。

日本もBSや有料放送に加入していなくても、NHKの集金という形でそれがあります。

PPVまでがメディアに対する対価の限界なんです。

 

番組を個々で売るようなサービスだったら、それはそもそも誰にも知られないし、話題にも上がらずトピックスとしても共有されません。

そして、購入者は初動から先細りの一途を辿るしかないんです。おそらく、連続テレビドラマというフォーマットさえ生まれませんでした。

 

 

 

しかし現代。 

その連続ドラマに各話単価をつけて売ろうとしているのがコミック業界です。

 

理由その5:コミック業界が失おうとしているもの

しかし、ジャンプ・マガジン・サンデーは御三家と呼ばれるほど成功しました。

これも、結局、寄せ集めでありながら、毎回連続ドラマの単価をつけて売っているのと同じこと。なのになぜ成功したのか?

これにはれっきとした理由があります。

 

立ち読み貸し借りができたから。

 

現代、シェアという概念がようやく共有されてきましたが、

そもそも商売やサービスの本質はこれです。

既成のサービス・商品を共有し、その魅力を折半すること。

ソシャゲメーカーや同人作家という創作弱者でさえ、これを押さえていれば一定の集金は可能なくらいです。

 

そしてシェアは作品の広報となり、顧客獲得機会の拡大となります。

その機会を拾ってきたものが「本誌」にかわる「単行本」というものでした。

これはPPVに近く、こちらは今後、単体でも通用し続けるものです。

 

しかし、連載というメカニズムで金を生む仕組みをつくってきた漫画には、「単行本」に「続きもの」という条件がついてきます。現代は効率厨のバカが多く、出版業界にいる彼らは目先の稼ぎを求めて、続きものをつくらせる傾向はさらに加速しています。

そのとき、先ほど言及した「最新刊は既刊より売れない」デメリットが付与されます。

 

ですがいままでもこの仕組みはありました。この減衰を最大限にとどめてきたもの、それが、立ち読みと貸し借りというシェアです。

 

ジャンプの場合、ここにさらにアニメ化が加わります。

ジャンプアニメのアニメ化はコミックの宣伝という目的を確固として持っています。

 

しかしそのシェアの機会を近年、出版業界はみずから奪ってきました。

それを奪った原点。それは、立ち読み防止のテープです。

――そして、これから奪うであろうもの、それが電子書籍です。

 

 

 

 

 

 

理由その6:電子書籍が出版業界のマトリクスを失わせる理由と、電子書籍のシェアサービスの提案

 

現代のコンテンツでもシェアは行われます。

グリッドマンの記事で同人はコンテンツを汚すといいましたが、それは彼らがエロパロと性癖でしか自己表現できない創作弱者であり、ネットを通じて"表現できないと傷つく"観賞適応障害を起こしているからであって、やはり話題を共有してもらうことそれ自体にまちがいはありません

正統な形のシェアとしては、漫画レビューですが、結局レビューであって商品そのもののシェアではない。電子書籍の冒頭立ち読みなど論外です。あれでは伝わらない。

 

――そう、電子書籍は立ち読みも貸し借りもできません。

電子書籍が媒体に依存し、他人にそのデータを明け渡すことは違反になるから。

 

ならば、購入者に人数制限つきのシェア機能を与えるのも、悪くないかなとは思います。お小遣いを出しあって一つのものをシェアする、ということが電子上で再現できますから。

 

電子書籍の利便性はもちろんあります。

かさばらないことやデータが保持され続けることもありがたい。

出版と流通にかかるもろもろの費用をカットできるのも出版社的にありがたい。

作家としては、もう問屋がおろさなくなった何年も前の作品の印税がいまだに毎月電子書籍で入ってくるというメリットもあります。

でもそれだけなんですね。

 

便利というのは効率厨の考え方です。

本質が見えておらず、省略の果てに根幹まで無視してしまう。仕事を早くしようという人間がそもそも仕事ができないのと同じことです。

 

 これ。

電子書籍が活路みたいなことをほざいてますが、

いかにもモノのわかってない人間の言い方です。統計の初歩すら見えてない。

https://store.boxil.jp/media/images/uploads/media_image/media_image/30357/large.jpg

 電子書籍のシェア拡大出版業界の規模宿縮小には相関関係がある。

という視点をろくに考慮していないんですよ。

 

 

 

 

 

 

理由その7:「書籍」への信用が薄れつつあることについて

 

 

電子書籍のシェアが100%になった瞬間、

いまのままであれば、出版業界は破綻します。

 

なぜなら、その瞬間、電子書籍とは、

だれもよまないと評判「有料記事」と変わらないものになるからです。

 

 

私が書籍に手を出すのは――いや、そもそも書店というものが存在するのは、

「書籍のなかにかかれているものには価値がある」 

という信用があるからです。金と同じように、"信用"があるんです。

 

 書籍が紙か電子かなどではない、「書籍」という概念への信用があるから、

「書籍」には価値があるんです。

電子書籍」を支えているのは、もともと「書籍」が好きだった人。

もともと本が好きな人、その素養がある人たち、ビブリオファンだけです。

 

そういう人の多くは紙しかなければ紙で買います。ラックに置き去りにされたジャンプやマガジン、寂しい女のためのホスト誌の一冊や二冊は見たことがあるでしょう。邪魔なら捨てるだけです。

 

小型テレビ「ワンセグ」が開発されたことで、

テレビの市場が広がったわけではないのと同じことです。

 

「書籍」という概念が

いままさに宇宙から来たオーバーロードに消されたとして

そのときわたしたちがまのあたりにする「電子書籍」とは、

「有料記事」との見分けがつくものではないんです。

それよりなにより、タダですべて見られるものがあるのですから

 

いくら先進的と威張っていても、「書籍」の記憶がある人間が手を出すものです。

「書籍」という呼び方が、中身の価値をある程度支えてくれているんです。

 

――そして、世代が変われば、

人々が「書籍」という保証にかんじる価値は薄れていきます。

「書籍」という概念の喪失というSFは、時間の経過と世代の変化によって

徐々にですが、確実に起きていくことだと私は思います。

 

活字は新作を出し続けられる。だから問題ない。

ネットでも通用する。

なぜか?

 

書籍ではなく、「作品」で勝負できるからです。

 

市民がメディアに対価を払うのはPPVが限界といいましたが、

たとえば映画などのレンタルは、多くの作品がそれで完結しているから通用するんです。切り売りではなく、商品を一つドンと受け取れるから。作品単体の取引は通用するんです。小説だって基本が作品単体だから生き残れます。

 

しかしその作品を続きものとして切り売りしたとき、

書籍販売という形を強いられ、それが世代が進めば進むほど足かせになるんです。

連載が進むにつれてそれは追いかけなければいけないメディアと化すから。

だが追いつくためには1から金を出して切り売りに答えなければいけない。

 

 

だからといって打ち切り作家レベルが新作を粗製濫造することに意義はない。

事実、人気作は売れています。

低レベルな似非漫画家の話ではないんです。人気じゃない人たちをいままで先人の仕組みが補ってきたということだけで、それは今もかわらない。売れないのはつまんないからで、売れない乞食を救ったところで業界は盛り上がりません。

でもそれを売れるようにすることでコミック業界が発展してきたのは事実です。そしてそれはごく一部の天才の売上があってこそのものでした。

それが通用しなくなってきた。作品全体のクオリティの低下もあります、そもそもの販売方式の効率化もあります、なによりも、

業界を支える天才の作品を切り売りして効率的に儲けようとした結果がこれです。

 

活字は大丈夫といいましたが、「活字だから」大丈夫なんじゃない。

囲碁や将棋の師匠がそうするように、

見込みのないやつは無慈悲に切り捨てられる世界だから。 

面白くて売れる天才しか残らないから、活字は問題ないんです。

 

 

たとえば本といえば神保町です。

神保町の書籍取引の強みとは書籍の「本当の価値」で売り買いできることです。

知識さえあれば、ちょっとした金策さえできます。

しかしこれはマニアの領域です。

神保町だけで書籍市場を支えることはできない。

書籍が高級品ではなく、バカにも売らなければいけない薄利多売の構造を持っている以上、適性価格のみで売買するやり方では通用しない。

その点、大型のシェアターミナルを務めてくれていたBOOK-OFFは必要悪でした。しかしそのBOOK-OFFも経営が右肩で、閉店する店舗も増えています。

それは、なによりバカの間で「書籍」というものへの価値が薄れてきたためです。

 

しかし「書籍」が見向きされずとも「漫画村」のように

第一線の"作品"

にはいつでもだれにでも需要がある。 

 

手塚先生のような先人のクオリティをもって築き上げられた仕組みに甘えて、

需要のための作品しかつくることに甘えてきた二流作家たちをのさばらせた末路です。

やつらを生きさばらえさせるための仕組みを一流作家にも適用してしまった。効率化というくさびを与えてしまい、彼らの才能を切り売りすることが当たり前になった。

 

 

ただ、読者と感覚を共有できなければもちろん意味はない。

需要を裏切って我が道を行くだけでは相手になどされません。このブログのように。

需要を理解し、それをしてセンスを貫き、多くの支持を勝ち取ってこその「第一線」ですから。だから、最新の、第一線の作品には価値がある

 

ただ「書籍」というくびきと「続きもの」という足かせがコミック業界の足を引っ張るなら。しかしその仕組みが先人が築いた漫画家を支えるものであるなら。

それでも最新の"作品"はいつでもどこにでも需要があるというのであれば。

 

「既刊」というマイナスファクターを

広告者に肩代わりしてもらえばいい。

 

購入者シェアサービスの方が現実的なのはわかっています。でもこっちの方が効果はあります。絶対的に出版業界は押し上げられます。

 

あくまでアイデアです。真に受けるかどうかは好きにしてもいい。

私が提案することの本質は、

 

薄利多売の「薄さ」を一度考えなおしてもいいんじゃないかってことです。

 

問屋という存在があって、その仕組みを考えたとき、無料コミックというものは現実的ではないし、ならば実際に基幹誌を無料で配布しているサイコミが

無料マンガ配信サービス「サイコミ」公式サイト | Cygames

単行本にそのリターンを吐いているかというとけっしてそうではない。そもそもサイゲのコミック事業はメインではなく、自社コンテンツの宣伝に重きを置いている。膨大な資金力とコンテンツの最先端を行く彼らの実験の結果は、まだ出ていません。

 

でも漫画村は結果を出しました。

 

従来の「書籍」という枠組みを超えて、 

「作品」には需要がある

と示した好例です。

 

漫画村の管理人は悪あがきのプレミアムサービスを見てわかるように、けっして頭の良い人ではなかった。しかしその行動の結果には意味がある。

戦時時の非道で無知な人体実験が、後の科学の発展に重大に寄与したように。

ガキの意趣返しみたいな似非サイトを作って悦に入るのではなく、もっとあのトピックスをみんなが研究するべきだったんです。

 

 

 

 

最後に

 

電子書籍」を「書籍」としてとらえるから駄目なんです。

もっと使い方がある。あれをただのアクセスしやすいデータファイルだととらえれるパラダイムシフトによって、「作品」を中心とした新しいビジネスモデルが構築できる。

 

赤松氏がやっているような似非漫画村の形というのは、世間一般と戦える優秀な作家を出版者と奪い合う形になります。ウィンウィンになりません。

もともとの漫画村の形式そのものを出版社に還元する形でDeNAのような事業家に任せるってのもなくはないんですが、さすがにそれは難しいと思います。仕方ない。

 

あるいは、 コミック誌そのものを無料にするということもできますが、だめだと思います。サイコミがそうであるように、スポンサーの広告塔になってしまうということで表現の自由度が下がるということが最たる理由ですね。これはちょっとまずいです。もちろん第一線でやれる品性や熱量ありきの話なので、エロをばらまくしか能がない創作弱者の自由なんざ唾棄されて当然ですが。


同じように、無料アクセスのネットコミックを開くという方策もあります。

裏サンデーやジャンプ+など既にいくつもの前例はあります。

でも、そういうことではない。無料かどうかではなく、重要なのは、そこにあるものが第一線の作品かどうかです。現状、世間に通用しないニッチ二流作家の逃げ場なので、影響力なんてないです。というか、さっきいった創作弱者レベルのたまり場になっているのが実情なので。

そういう一流の人間は現実社会で看板を背負わされます。書籍コーナーに平積みされる本の表紙をかざらさせます。ネットで消費なんてさせません。

 

 

というわけで。

私のインスタントアイデアとして、

「既刊0円サービス」――いかがでしょうか?

一流の連載作品に無料でアクセスさせる、それがたった一つ業界を救うシェアです。

 

 

既刊の費用や印税などは広告主が持ち、だれもが読むことができる。これまでの販売のメカニズムは広告主が請け負う。あるいはそれを作品個々でやってもいい。ワンピースの既刊スポンサーになりたい人は山ほどいるでしょう。

これがよしんば一般化したら、コミック無料のデメリットである広告塔化を心配される方もいるかもしれません。

でも大丈夫。

対象は『既刊』なんです。

なんだったら巻ごとでもかまわない、そうすれば影響は与えられません。

 

もちろん、トラブルによって企業がスポンサーを離脱するなどといった付随してきます。るろうに剣心なんてあれはもう茜新社以外厳しいでしょう。あれの無料化だけはあきらめてください。

ともあれ、そこに関しては、契約期間を厳密に定めるしかないですね。

あとは出版社がどこまで責任を負うかにかかってますが……。

しかしここで希望がある。

それらのデメリットこそ、費用が最小限にとどめられ、だれもがアクセスしやすいデータファイルである、電子書籍だから最小限にとどめられます。

書店に並ぶ紙媒体には値段をつけてもいい。でも電子書籍なら極論すれば印税以外のマイナスはカットしようと思えばできるんです。

そんなわけで、これが私の考えるアイデアです。

スクエニの記事にくらべれば、ちょっとおふざけの過ぎるアイデアかもしれませんが、それなりに本気でいってはいます。 

 

 

 

え?

どこがそんなサービスのスポンサーになるかって?

 

とりあえず候補は一人いるじゃないですか。

 

すべての週刊漫画雑誌をひっくりかえしてみればそこにいる業界の牽引者が。

なんだったら某TVの予算、出版業界にわけてみたらどうですか? 

 

 

 

 

 

 

 

 

[閑話]

 

喧嘩稼業(11) (ヤンマガKCスペシャル)

 一押し。

「FFⅦリメイクは失敗する!」現役ゲームクリエイターが"真剣に"追求するスクエニの現状

 


現役ゲームクリエイターとは誰かって?
すまんな、私だ。
ゲーム分野においては、ドラクエの堀井さんもかつてたずさわっていたシナリオライティングを主戦場としています。


しかし筆者はスクウエア・エニックスと案件をもったことも、所属していたこともありません。
ただ、スクウェア&旧エニックス、あるいは旧スクエニスタッフが多くいる血縁的会社や、彼らがサードパーティーとして付き従っているリーディングカンパニーとはつながりがあります。
スクエニを知る人間も周囲にいないのですが、旧の状況なら聞くことはできました。
なので、今回の記事はある程度類推が入ってくることはご了承ください。
しかしその分いつもに比べて煽りは控えめになっています。


というか、今回の記事はじつはお蔵入りにするつもりでした。
いくら匿名とはいえ業界の他社を邪推するわけですから、せめて現スクエニの内情を知っている人間が身近にいてほしかった。それくらいの根拠がないとやってはいけないのかなという思いがあったわけです。
……ですが、ふと気付いたのです。
第一線でゲーム製作に関わっている私であるにもかかわらず、周囲には近年スクエニからやってきた人間が一人もいないということ。
――その事実こそがスクエニの病巣のありかを如実にあらわしていることに。

 

 

 

 

今回のトピックス

てことで今回のトピックスはこれ。




ひどい。


まずは一番上と二番目の件。
簡単にいえば「発売するぞ」と広報していたAAAタイトル関連ソフト
総合的な損失がやばいから
4作中3作「やっぱ出しません」と言ってのけたという事件。

下の件は、FFⅦリメイクが発表されてなお、実は人員が集まっていなかった、開発してなかったよということが判明した事件です。


しかしこれらの狂騒によって、
実はスクエニが抱える問題は丸裸になりました

というわけで、スクエニが抱える問題をこれから
A.社会人なら察するレベル
B.業界人なら察するレベル
の二段階に分けて説明しようと思います。
その上で、我が思い出のFFⅦリメイクの約束されし失敗の根拠と、
それを脱却する方法をお教えしようかなと思いました。
わりとマジでこの記事はスクエニの人に見てもらいたいところではあります。

これまでの記事はなんだかんだ唾棄されてもよかったですが、今回の記事は長々とお付き合いしてもらいたい気持ちはあります。なんだったらアドバイザーとして関わりたい気持ちさえあります。



では、とりあえずかつてのJ.RPGの雄の凋落の原因を探っていくことにしましょうか。

 



――ちなみに堀井さんがいる以上、ドラクエプロジェクトはまだ安泰だと思います。
だから今回は坂口氏が失われておちぶれたFFブランドに重点を置き語ります。


スクエニの現状を追求する

① 社会人なら察するスクエニの問題点


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スクエニの諸々の失態はディレクターの勇み足に端を発します。
どのような力学がそうさせたにせよ、開発していないものを開発していると言うことは"早い""遅い"の問題ではない。理由はいくつか考えられますが、いずれにせよ同じことです。
『JP GAMES,Inc』代表にして、FFXVの元ディレクター・田畑氏の諸々の出過ぎた言動に関しても同じことが言えますね。


ではディレクターという業種はゲーム会社においてどのようなものなのか?
ここでゲーム開発現場の構造を簡単にお教えします。

-----強-----
社長、幹部、プロデューサー
ディレクター&シニアディレクター
プランナー&シナリオライター
制作・開発に関わるその大勢のマンパワースタッフ
-----弱-----

こういったトップダウン構造になっています。
複数のプロジェクト(以下PJ)を抱えている巨大メーカーなら、ディレクター以下がPJ毎に存在しています。権限によって力関係を区分するとこうなります。


社長・幹部・プロデューサー
==経営判断の権限==
ディレクター・シニアディレクター
==開発進行の方向性を決める権限、実装判断の権限==
プランナー・シナリオライター
==企画・発注・主導の権限==
その他大勢




――では、

ディレクター陣の勇み足が起きる原因とは?





社長・幹部・プロデューサー←ココと
==経営判断の権限==←ココが機能していないから
ディレクター・シニアディレクター
==開発進行の方向性を決める権限、実装判断の権限==
プランナー・シナリオライター
==企画・発注・主導の権限==
その他大勢

 



つまりなんですが、これは社会人ならわかると思います。
無能な上司が「どうにかしてくれよ」と仕事を投げた結果、
本来決定権のない下位の人間が「判断せざるをえない」ことになってるんです。

開発現場の人間が、客観的に、マクロにゲームのクオリテイを見ることは不可能です。
なのに総合的に出来不出来を判断するべき上層部が何もしていない
だから、若造のディレクター風情が判断を下さなければいけなくなっているんです。


この手の複数PJを同時進行している巨大メーカーには社内検討会があります。
(もっと正確な言い方はありますが、それを言うと私の所属がばれかねないので控えます)
ミーティングなどで制作中のPVを披露してきゃっきゃする憩いの場とは違う。
経営判断の権限を持つ人々や、他PJの責任者を交えて、会社全体でゲームの開発進行状況を精査する監査の場です。

そこで考えてみてください。

あれほど未完成といわれたファイナルファンタジーⅩⅤでさえ
この社内監査の洗礼を受けているんです。
経営判断者やその他有力者はすべてあれを目の当たりにしていたんです


……ただ、ある条件下においてこの登竜門はフリーパスと化します。
プロジェクトの主導者が、社長であったり、また、社内ででかい顔のできる古株ディレクターであったりする場合です。

ゲーム会社は出入りの激しい職場です。
有能な人間はすなわち実力のあるクリエイターですから、そういった人間がひとところに留まるということはないんです(私も一つの会社にずっと所属はしていません)。とくにディレクションなどのクリエイティブの能力を問われないポジションで"古株"になっているというだけで大抵は無能になります。

おおかたクソゲーとはそうして生まれるものです。
そして思い返してみてください。
上層部から仕事を投げられるということは、ディレクターに政治力が与えられたということです。でかい顔ができる権利を結果的に与えられてしまっています。上層部の監視がないので、結果的にそういうことになります。

これが、社会人がチラ見するだけでわかるスクエニが抱える問題の根幹です。
経営側制作・開発側が分断されてしまっているということです。

脳機能を失って這い回るゾンビというのは言い過ぎでしょうか?
FF15が過去の遺産をネクロマンスしてなんとか動くようにしたもの、前頭葉を失って何が正しくて何が悪いかを判断できないまま与えられた命令を実行したもの。
といえばあながち筋違いではないと思いますが……。




さて、ここまでは素人でさえ見誤ることはないでしょう。
ここからは私の経験則が問われてきます。









② 業界人なら察するスクエニの問題点

ここからはかつてのスクエニ(10年前近く)スタッフの証言付きの話になります。
スクエニが合併する前のスクウェア時代、エニックス時代は才能の宝庫でした。
互いに日本ゲーム業界の中心たるJRPGの覇を競う二大巨塔だったのですから、それは言うまでもなく当たり前です。
しかし彼らは今私が関わっている現場の方にいます。
そう、現在のスクエニにはもはやかつての二大巨塔を支えた才能はいないんです
 
ゲーム会社は「才能の止まり木のようなもの」であることを先ほど触れました。
その『才能』を引き留めるのは、彼らのセンスを刺激させるに足る魅力的な「プロジェクト」と、人間社会最大の評価基準である「金」のみです。
巨大ゲームメーカーはその二つの血管をもって、巡る才能を統率する心臓と化し、いくつもの作品を生み出し続けてきました。
クリエイターが出入りする中、いくら引き継ぎをしても、センスを引き継ぐことはできません。それでも、外せないスタッフを金で引き留めることで、ブランドの中身を支えるという方策をこれまでのゲームメーカーはとってきました。

つまりスクエニはそれができなかったということになります。
はたして何があったのか?
 
かつてのスクエニが陥った赤字経営時代にさかのぼります。
外部から承知した和田CEOが大なたをふるって有能な人材を次々と切ったという流布もありますが、そもそもの実体は
赤字なんだから才能を引き留められるわけがない。
というところにあるわけです。ごく単純な有能スタッフの流出です。

いくら引き継ぎをしたところでセンスは引き継げません。
そうして、しくじるべくして輸血にしくじり、メーカーは壊死したのです。
 
スクウェアエニックスを破壊しつくした和田洋一を振り返る、10年の戦いが終結
ちょうど同じことを語っているこの記事にいい文言がありました。引用します。


そもそも、旧スクウェアは一部を除いて金で人を寄せ集めたような会社だったわけだ。
その会社が、金がないからと人が去り、残ったのはカスのような人材のみ。
 
逆に入ってくるのは旧スクウェアのゲームが好きだったおたくのような存在。
そんなものがまともなゲームを作れるわけないよな。
 
そうして出てきたのが「ファイナルファンタジー13」であり「ファイナルファンタジー14」。また、遅々として進まない「ファイナルファンタジー ヴェルサス13」なども同様だ。

「好き」という気持ちや「ファン」であることしか武器がない――
――そう、まさに同人作家のような人間が入ってきてしまったわけです。

一方、自分の能力を金に換えられる人間は出て行くのは常です。
そして、そうではない人間が居座る。もっとも問題なのは――それは制作・開発レベルではなく、
上層部でも同じことが起きていたんです。





つまり、ゲームを作る才能がない人間が、ゲーム会社の上澄みに残ってしまった。
たとえるならば、自社内部で発生した天下りです。
 
そんな彼らに何ができるかといえば……
美空ひばりの息子などを見るとわかりやすいかもしれません。
 
歌もうたえない息子に残されたものは母の遺産。
その遺産を管理し、骨までしゃぶるように切り売りすることだけが唯一できることです。
 
遺産とはゲーム会社においてはIP(知的財産)と呼ばれるものになります。
たとえばFGOなどはfateシリーズ」という『TYPE-MOON』に帰属するIPを許諾を得た上で借用しているゲームタイトルです。
一方、スクエニの場合、かつての才能はのこっておらず、『ファイナルファンタジー』や『サガシリーズ』など彼らが残したIPだけがある。
――それを使ってできたことは?

チャゲーですよ。

粗末なFFタイトルのソシャゲが連発されているのはそういうことなんです。
自社IPでありながら、作ったのは過去の先人たちであって、
他社IPのガチャゲーを作っているのとまったく同じ構造なんです。
ただ単に自社が保有している知的財産でしかないってことなんです。
他社IPならまだ慎重になるが、自社のものだから「数撃ちゃ当たる」を平気でできる。



これ、以前語った創作弱者の悪あがきとそのまま同じなんですねえ。
エロはなくとも、パロだけでなんとかしようとしているってことです。





そんな彼らだからこそ、FF12FF13、なによりFF15といった
見るに耐えない貧弱なコンテンツが生まれてしまったんです。

――どういうことか?
なぜ貧弱なコンテンツの量産を良しとするのか?


直近のFF15の未完成DLC商法や、FF15のIPを使った派生ゲームの連発を見てください。そして、間を置かずしてFF15キャラが自社ソシャゲに派遣されたことも。
 
スクエニの上層部が欲しかったのは、
すでに使い古しになりつつある過去のFFに代わる新しい知的財産――

ファイナルファンタジー15」という新たに使い回せるIPだったんです。
誇れるゲームタイトルが欲しかったわけじゃない。

創造性のない人間が資産運用するための、
新しいファイナルファンタジータイトルを求めていたのであって、
中身なんてどうでもよかったんです。

そもそも15が元々「FF13ヴェルサス」なんてタイトルだったことからして明白じゃないですか。新しいものを作るつもりなんてなかったんですよ。

12も13も15も見るべきものがあるのはわかっています。でもそんなこと言及する場ではない。15で問題視されたシナリオの特徴だって私ならプロとして分析できますしどうすればよかったかもわかります。でももう遅いんですなにもかも。
 
さあ、現在のスクエニ上層部が求めているのは
ロイヤリティあふれるファイナルファンタジーのIPだということがわかりました。

彼らは、魔法のようにIP資産が手元にあわれることをずっとずっとずっと願っています。
その上で、スクエニの勇み足を見直してみましょう。
 

人材不足・開発未定にも関わらずのFF7リメイクの発表。
2018年決算報告におけるAAAタイトルへの原点回帰宣言。
一方、知的財産として見限ったFF15DLCの開発中止。

赤字の部分は経営判断できる上層部しかゴーサインを出せないものです。

そしてこれらはすべてIPを求める希望的観測であり、そのアピールでもあり、
しかしてその実態とはスクエニの上層部が両手を合わせて祈るだけの

かみさま、ぼくこんなものがほしいな

というだけのお願いなだけなんです。
同時に、こんなものいらないよと自社製品を切り捨てる幼児性まである。

そんな思考を平気で承認し、発表させ、平気で取り下げちゃうのが現在のスクエニです。
最低の体制です。

ファイナルファンタジーという魔法の枕詞があれば、魅力的なIPが生まれてくると思っているんです。そういえばFF15の魔法はやたら強力でしたね、そういうことか。



……さて、これらが現状のスクエニ上層部が抱える問題です。

もちろんディレクターが優秀ならドラクエのように安定感を持つことはできます。特に堀井氏はシナリオライターだし、ビジョンというものが明確にある。
一方、ビジョンを持たない絵描きやプログラマーが継承できるようなものではない。仕事をたくさん抱えているかどうかなんて関係ありません。








――しかし。
「だからFF7Rが失敗する」というのはただスクエニを軽んじているだけです。
あくまで論理的に、しくじる理由というものがロジカルに説明できるんです。












③ 第一線のクリエイターなら察する問題点

スクエニの決算報告において事業方針の転換が宣言されました。
次なる方針とは、

事業⽅針の⾒直しを実施し、
同社の強みをより⽣かす⼤規模⾼品質ゲーム開発へ集中

すること。当面の大本命がFF7Rであることは言うまでもありません。

はい、ぜったいに失敗します。

とはいえ、ファイナルファンタジーにおける失敗とは売上ではありません。FFのナンバリングであり、適度な広報を打てば、必ずミリオンに乗るのがFFです。
たとえばFF15は800万本を超える売上によって既に開発費の回収を果たしている。
それでもDLCは乱暴に打ち切られた。つまりIPのロイヤリティが既に死に絶えたからです。ロイヤルエディションが起こした悲劇や、生まれながらにして死んでいった派生ソシャゲの末路を見れば素人にだって先がないことくらいわかります

これがファイナルファンタジーにおける失敗の定義です。



FF7はここまでよく延命しましたが、今回でいよいよ出涸らしになるってことです。
作者がそこまで考えてない程度の作品がアニメ化と同時に消費のゴールを迎えたように。

もちろん、特別損失37億円を計上してまでルミナスエンジンと直結するFF15の開発を打ち切ったのは、もうFF15では稼げないからです。いやそれどころか、将来的にそれ以上の巨大な損失が見込まれる不良債権となったからでもあるんです。
また、ソシャゲ事業の言及からわかるようにIPの切り売りすら通用しなくなってきたことから、FF7コンテンツにすらケチをつける反動は単純な損益を超えて凄まじいもののはずです。それならいっそ出さない方が良い、虚偽申告によって会社に対する期待値を維持することができますから。
 

ではなぜFF7Rは失敗するのか?
それは、「スクエニがこれまでFF7を使い回し過ぎて陳腐化したから」とかではなく、「リメイクが遅きに失したから」といった理由でもありません。
 
スクエニは「大規模高品質ゲーム」を勘違いしている。
すなわち、
スクエニが目指している「高品質ゲーム」は、ユーザーの考える「高品質ゲーム」と合致しないからです。

スクエニ工数をスリム化して、余剰人員を巨大プロジェクトにいくら投入しようとも誇れるAAAタイトルにゴールできないのが目に見えているからです。


大規模高品質ゲーム(AAAタイトル)――それらRPGの成功例といえば、ファンタジーなら直近では「TESⅤ:スカイリム」や「ウィッチャー3」などネットワークに頼らないロールプレイング勝利者の座についています。でも今のスクエニには到達できません。ビジョンあるリーダーがいればドラクエのような地域密着の堅実な作品まではいけますが、AAAタイトルだけは絶対に不可能です。

なぜって?
優秀な人材がいないから。


上層部と同じように、
ディレクター・シニアディレクター ←ココと
プランナー・シナリオライター ←ココと
その他大勢のマンパワースタッフ ←ココが
無能ばかりだからですよ。



どうしてそうまで断言できるのか?
スクエニがリリースした最新のハイエンドゲーム
ファイナルファンタジー15
を例にとって説明しましょう。
だってこれが彼らの思う高品質ゲームの代表なんですから。






ではここで質問です。
はたしてFF15が「力を入れていたもの」は何でしょうか?
ここにこだわったとアピールしていた部分は何でしょうか?












――そう、おにぎりだよ。


『ファイナルファンタジーXV』延期の裏側と目指す到達点――田畑端氏インタビュー【gamescom 2016】 - 『ファイナルファンタジーXV』ファミ通.com 特設サイト


おにぎりひとつに
召喚獣リヴァイアサン
と同じスペックの労力を注ぎ込む狂気

けど笑い話じゃないんですよ。
路傍の岩なども実際に撮影して、それを取り込み、ビジュアライズすることに心血を注いでいたというエピソードもありますね。そしてVRシステムを適用してやることは釣り、力を入れたのは魚のグラフィック……。
それを公式が推す神経が異常なのは素人でもわかりますよね。

グラフィックやムービーに力を入れていることはわかります。
ただ、総合的に見たらすごくもなんともないですよね?
どんなグラもお使いでとおりすぎるだけだし、シナリオはどっちらけだし。
だいたいちょっと動こうとすれば、バグが起きるし




……けど、この惨状ってすごくロジカルに考えると単純な答えが出るんです。
狂気じゃないんですよ、こうなるにいたった経緯にもっとわかりやすい説明がつくんですよ。クリエイターならみんなよくわかることです。


これは、
ゲーム開発のみならず、
映画やアニメなどをもふくめた
あらゆるクリエイティブにおける一つの重大な至言です。



グラフィックはマンパワーで向上する。
才能はいらない。


グラフィッカーは認めたくないと思います。けど、グラフィッカーがグラフィッカー同士で傷をなめ合わないといけないほどバリューがない存在だということは同人誌記事ですでにお伝えしました。

abcefg3135.hatenablog.com

というか、もうさっきのおにぎり記事で言ってるじゃないですか。
「実物を取り込んだ」って。絵と同じように、もともと存在するものを具現化するのは
体力と根気だけでどうにかなるものなんです。基本はデッサンで、応用もデッサンで、それを超えるのはピカソですらなしえなかったんですから。


つまり、
消去法で繰り上がっただけの半人前ディレクター
会社を股にかけることもできない平凡なゲームクリエイターができることって

絵面をキレイにすることくらいしかないんですよ。


FF15の制作進行がグラフィックの洗練に傾注したのは、それしかできないからです。
ユーザーへのプレゼントであるゲームソフト、その中身そっちのけで、ラッピングにばかりに悩んでる人たちなんです。
商品が作れないから、そんな頭さえ働かないんです。

たとえば
子どもがドラッグストアに行ってお使いするだけのゲーム
でしかなかったとしても、町並みをリアルに綺麗に描くことはできるわけです。どんなに中身がなくても。でもそれは絵じゃん。で終わるわけですね。それと同じ。


逆にいえば、人材が失ったスクエニでも、頭数さえ集めれば、体力と根気の合計値によってグラフィック面は上の水準までもっていくことができる
塵を積めば(グラフィックを取り込めば)、山になる。当たり前ですね。
 
……そこにこだわるのは、「ファイナルファンタジーの魅力は美しいビジュアルだから」でしたっけ。いやあ、いかにもグラフィッカー上がりの野村氏がそれしかできないという自己欺瞞の果てにたどりつきそうな答えですが、
違いますよ。
もともとFFは、FF3の飛空挺の挙動や、FF4の召喚獣・リアルタイムバトル、FF7のキャラが操作できるムービー、FF8のムービー等身を維持したままの全編操作など、不可能を可能にして、未知のゲーム体験を売ることが武器だったんです。
美しいムービーやビジュアルを維持したままのゲーム進行なんてもうとっくに可能にしたんだから、こだわるところじゃないんですよ。もともとFFには既存の力関係にさえ加わらない「アイデアマン」というポジションさえあったんですから。
一方、野村氏のアイデアなんてファルシのルシがコクーンでパージみたいな、
きさらぎ駅のような奇怪な異世界体験しか与えてくれなかったじゃないですか。

グラフィッカーでセンスが出るのは【動き】の部分です。たとえ高品質なグラフィックでなくとも、スパロボアリオスの人とか花騎士の茶助とか、けっして出来の良いモデルをつくれなくとも、動かし方には他人とは異なるセンスが出ますよね。


……けど、そのグラフィックさえ実はまともに機能していない。
止め絵しか綺麗じゃないから。



【FF15バグ】車の若者離れ【コメ付き】
 

止め絵だけ見栄えのいいモデルだけポンポン置いて、ろくに連動も機能もしない。
真顔で黙っていれば美人というどうしようもない置物しかない。
なんでこんなことになるかって?
プログラマー要求に応えられないから。そもそもなんで数多のバグがあるかといえば、ゲームの屋台骨を支えるプログラマーが役立たずだからだよ。

魔法さえ使っていればいい戦闘、終盤のあれこれのレベルデザイン……ひとつずつ数えていけばキリがないけど頭脳労働の人員さえまともに頭を使えていない

そして、多方面からむちゃくちゃ叩かれたシナリオライター。いかにも女性作家の悪癖が出ていることはまちがいない。けどそれ以前の問題がありました。


彼女のやりたいことくらい同業者なんだからわかりますよ。
あの人はいわば、松本大洋今やすっかりおちぶれたひぐちアサみたいに
台詞でキャラを表すのではなく日常的な言葉と自然な行動で描こうとしていたわけです。犠牲に心を痛める心優しき王子が、それをして使命と向き合い、なお「辛いよ」と告白する物語を。

星の危機に立ち向かう王子でなく、厳格な家に生まれたスパダリでやれと思わざるをえないですが、それはそれとして、長い旅の道中、幾たびも交わされる彼らの言葉や行動から、彼らの人間としての輪郭をつかんでほしいってことでしょ? やりたいことは100%わかってるけどそれが筋違いなの。
自分が主人公じゃないRPGって、感情移入したいキャラが必要なの。まずどんなキャラか明確に伝えなきゃいけないの。
だらだら架空のキャラの生態を描いて、それを観察していれば勝手に性癖にクるような「やおい」とは違うの。

FF5~10は特にキャラが一発でよくわかりました。初見で主人公がアホの子だとわかるFF5から、初見でちょっとアホな子だとわかるFF10まで……。
さっきも挙げましたが、ラストのノクトの「やっぱつれぇわ」もそうですよ。
伝えたいことをはっきりと全部こう示せばよかったんですよ。

「歴代の王に並ぶ覚悟はした」
「ここに来るまでの犠牲すべてを力に変えてみんなの期待に応えるつもりだ」
「だからもう言葉は出てこない」
「でも、お前たちと旅をした一人の男が、伝えて欲しいって言ってるんだ。最後に」
「『やっぱつれぇわ』って。」

いやまあ仮ではありますけど、こういうことでしょ?





上層部は仕事しない。
ディレクションはビジョンがない。
主導はやおい
マンパワーはノーパワー。
できることはよってたかってパッケージに力を入れるだけ。
そんなスタッフがみちびくFF7の未来予想図はもう見えています。

話題になるのはやたら気合入ったクラウドの女装だけ。

それだけ、マジで。


グラフィックが向上しないとできないことなんてないんです。
フリゲレベルでは、かの怪作インディーズゲームHotline miamiのドット2Dをベースとして、『Half-Life2』のゲーム性を見事に再現したような例もあります。やりたいことというものがはっきりしていれば、どんな媒体でも再現はできるわけです。
グラフィックなんて、荒野行動レベルでさえ充分なんです。あの会社ってマーケティングは上手いし、しかも、プログラマーは優秀です。軽さは優秀さの最大の尺度です。スタッフは精鋭で、能力はスクエニのそれを上回っているでしょう。人数に差があるだけ。
 

プランナー◆20年の時を経て生まれ変わる「FF VII REMAKE」を創造せよ。


当時話題になったFF7Rスタッフの求人ですね。
FF7への熱い想い」とかさあ……だから同人かよって。
やるべきことが違います。

まずは当時のスタッフを大枚叩いて召喚すんだよ!

だいたい、ちゃんとした物作りできる人は、「好き」という前提条件がなくても「理解」します。「好き」とか「ファン」であるとかが免罪符になるのはアマチュアまでです。ファンやオタクがクリエイターになれないっていうのは昔からの金言でしょうが。
自分のセンスがある人なら、そんな情熱などなくても求められているものを理解できるし、1からコンテンツを好きになっていくことくらいできます。さすがに「知らない」となると問題があるかもしれませんが。

そもそもFFはドラクエのコピー作品でしたけど、ドラクエを作ろうとはしてませんでしたよね? ドラクエが好きじゃなくていいんです。まして"創造"とまで言うのなら。

だいたいグラフィックに関しても、止め絵が上手なだけで、
これをほめそやすのはゲハ戦争の兵士たちか同じレベルの人間くらいのものでしょう
スクエニの美麗なグラフィックは、プログラムとは連動しないただの風景です。
本気でグラフィックを向上させたいなら
ピクサーの小林烈氏くらいのレベルを引っ張ってくるべきなんですよ。




開発ラインを整理して、他PJから人員を引っ張ってきてもまともなAAAタイトルが作れない状況は変わりません。他社から引っ張ってくるしかない。
必要とあれば積極的に外注すべきだ。アンリアルエンジンで開発なんだからそれも問題ないはず。
なによりもまずプログラマーが必要だ。それがすんだら、あとはもう片っ端から。できることなら元FF7オリジナルスタッフ。いなければ高給とりの優秀な人を。スクエニ内部に見る目のある人間がいないから、いっそプロデューサーを立てればいい。可能ならばなんとか坂口氏を監修の立場に組み込む。
とにかく、
外様にデカい金ばらまいて傭兵に来てもらうしかないんです、かつてのスクウェアみたいに。


www.jp.square-enix.com

まあ実際はこうですけどね。"FF7で育った"クリエーターが結集中だそうです。
それが無能の尺度になるわけではありませんが、上がこれを誇るのでは話にならない。

冒頭でアドバイザーになってあげてもいいといいました。
まあそうなることはないでしょうが、どっちにしろ、私は傭兵集め三者監査をおすすめすることになると思います。もちろん後者は極論で、ゲーム会社特有の守秘義務ゆえに難しいところではありますが…。(ゲーム会社は開発フロアの窓が全て締まりきっているくらい情報保護に敏感なところです)



ゲーム業界は才能ある人間が会社に股をかけて活躍する戦場です。
とくに大きいメーカーになればなるほど毎週のように新しい人材が入ってきては出ていくといった様相を呈してきます。OJTもそこそこに一週間たたずに戦力としてバリバリやっていくのが当たり前の世界です。
――そこで見えてくるひとつの現実。"近年スクエニにいた"というクリエイターが第一線の私の周囲にいないということは、だれも外に出てきていないってことなんです。
スクエニ新陳代謝を失って、老廃物がたまりにたまってるんです。

才ある人間が必要とされています。問題点も改善点もただそこだけです。

だがそういった人物の価値をはかれる人間がいるかがまず怪しい。
だからさっき言ったように、プロジェクトの裁量を全権委任したプロデューサーでも立てるくらいのことをしてもいいんじゃないかというのはわりとマジで言ってます
もちろん多額の予算を与えて、ですけどね。










ところで、みなさんは
ダウンタウンの浜田が司会を務めるバラエティ番組『プレバト』はご存じですか?

『プレバト』には、芸能人がしたためた俳句を、辛口の俳句の先生が採点する人気コーナーがあります。
そこで一つの句をめぐって先日史上はじめての出来事がありました。



帰省ラッシュの思わせる渋滞の写真を見て一句。

 変わらぬ景
   うつむき見たり
        草紅葉


『才能アリ』と評価されたこの一句。
しかし詠み人の解説によって評価は逆転します。
「変わらぬ故郷への郷愁」を描いたものかと思いきや、単に「車が渋滞で進まなくて暇だから、窓から首を出して道ばたの草を見ていた」ということをうたっただけだと判明したのです。中身がスッカスカなことがばれて、いくら響きが良かろうが、ゴミはゴミとして『才能ナシ』の烙印を押されました。

この場合、解説さえなければごまかせたかもしれません。しかし、ゲームはそうはいきません。プレイヤーを架空の世界に招き入れ、彼らに没入感を与えるもの。いくら上張りが良くても、そんなものは中身の貧困さに比べれば何の足しにもならないのです。

そうなったとき、どうすればいいか?
その答えは、「才能ナシ」の烙印を与えた先生が詠み人に送った言葉にあります。






一からやり直しましょう、そうしましょう。








[閑話]
私がいちばん好きなファイナルファンタジーは5です。

八王子の中2いじめ自殺が、またいつもの「泣けるいじめコンテンツ」に変わっていくのを止めたい

※元々は11月8日の記事です。姉妹サイトからの転載を忘れていました。
 
 

大学二年生のころに塾のバイトである中学生を担当しました。
生徒の来歴をあらかじめ伝えられていた私が質問したのは
 
「いじめられてたの!?wwなんで!?www
 何されたの!?wwwwwwwwww」(当時の時代を反映した表現にしました)
 
無礼な私に彼女はパニックになることなく普通に答えてくれました。
私は好奇心の塊で、とにかく彼女の心理を知りたくてたまりませんでした。
なにせいじめることもいじめられることもなく育った人間なもので。
根掘り葉掘りいろんなことを聞き出して、「さすがにそれはやべーなwwww」と俺は楽んで聞き、彼女は苦笑混じりだったのを覚えています。
 
それから学習支援や進路相談を通じていじめ問題に触れたことは何度かありました。
 
それでもなお、あのころからずっと、
人間がその程度で破綻するものではないという感覚は変わっていません。
 
 
 

今回のトピックス





というわけで今回のトピックスはこれ!
痛ましい事件ですね。そして、典型的なだけに救いがたい。
せめてこれが史上初の報道なら報われるものもあるでしょう、
しかし事実として大河の一滴なわけです。

そして…以前に安田純平さんの記事で言及したように、
"売れる"カテゴリーとして報道が大々的に取り上げがちなニュース商品のひとつです。

さて次はスポーツです!と流されるやつです。

別に煽ってるわけじゃありませんよ。
報道に意義はありますが、それを肯定することとは別に、これが"売りに来ている"カテゴリーであるということは知らないといけません。
『いじめ』を使って売れる路線というものがあるんです。一例をtwitterのあるツイートで紹介しましょう。
 
この人はなんも悪くないですよ!?
ただ、これが売りたい路線なんです。マーケティングの王道です。
そして次の売り上げを拡大するための「浅い感動路線」
すなわち、反吐が出るような、「泣けるいじめコンテンツ」でもあります。
そうして、ここで生まれてくるのがこういった論調です。
 
 
これがヤバい。RT稼ぎではなく、これをマジで言わされてるからヤバいんです。
自殺した子を主役として、責任を与えるべき敵側を設定する方向性。
「何もしてくれないことは悪だ」と他人主体で考えること。
 
もちろん報道そのものの意義はあります。しかしやり方がマズい。
 
なぜかっていうと、どこにでもある弱い者イジメを
死んだ子を悲劇の主役に見立てていかにも義憤をかきたてる美しいドキュメンタリーに仕立てることで見えなくなってしまう視点がある。
口触りの言い弾劾の言葉では到達できない真実があるからです。
 
 
これがマズいもうひとつの理由は、 

たとえばこのように少年事件、あるいは学校という治外法権
のトラブルを扱うということは、真実が表に出てこないため、
何を言っても反論が来ないということなんです。
だからやりたいほうだい美辞麗句で飾ることができるってことなんですね。






ちなみに今回の報道を通して本当にわかることは、
① 自殺した子は転校後も学校に行かなかったこと
「大会に出たり出なかったりしていた」こと
「学校にいけない自分が嫌い」であること
「だれもたすけてくれなかったな」ということ
の四つです。下の三つは動画の遺書で確認できる文言ですね。
 
④についてはハッキリ言い切ります。
まわりがたすけてくれないからこうなった。最後は他人の力に頼ったんです。
自分を責めさいなみつまはじきものにしたはずの"まわり"に。
この泣き言をどうとらえるかが今回の論点になります。
 
あとは、もともと立場のある子なら家族旅行に行ったところで省かれたりしません
もとからうまくやれてはいなかった部分はあったはずです。
それでもなお"まわり"ばかり見ていたちぐはぐさがすべての元凶です。
 
 
 
え? もとより部活の拘束性がまちがっている……?
こんな自由が認められない環境はおかしいって……? お前りゅうちぇるか!?
ブルース・ウィリスの娘の爪の垢でも煎じて飲んでろ。
 
 
りゅうちぇるの件は、結局、世間の常識に対するバランス感覚の無さと、
そのくせ世間に歩み寄ってもらいたがってる押しつけがましさが問題なんですよ。
同じく夏休みの練習中に旅行に行くことも一般的な常識と比較してマイペースだと言わざるをえません。まあこれについては後々詳しく言及しますが。
 
ただ、部活のありかたは勝手に議論していてください。
大事なことではありません。

私が言及したいのは、『転校後の不登校』の件ですから。

だって、死んだのはいじめから逃れた後なんですから。(LINEの事は勿論後で言及しますよ)
そこで人生を巻き返せたはずなのにできなかったのはなぜなのか。
これは典型的でありながら、報道されるパターンとしては珍しいケースです。







さて、この記事の方針かつ結論ですが。
いじめを無くすことは100%できます
外見的に生まれながらハンデを背負っている人だろうがなんだろうが。
しかし、個人レベルでのみというだけです。
学校や社会や組織でも、家庭でもなく個人レベルです。
 
そしてブログの序文でいったように本ブログの運営方針は
時代遅れのブログだからこそできる
マーケティングの視点をかなぐり捨てる方針
にあるので、真っ向から正論をぶちまけていきたいと思います。
 
"転校後の不登校"ではなく"いじめ"にばかり注目する優しい加害荷担者たちと、動画からでさえわかる親の問題点ぶっ叩く路線なので、この"泣けないカテゴリー"を買うつもりがなければさっさとテレビやSNSyoutubeに逃げてください。
 
 
"「いやぁ、うち夏休みは遊びにいきたいから、部活よりクラブの方がいいんだよね」
と自分の意見を言える子なら攻撃されたりなんかしませんでしたよ。"
↑ラストにはこんなこと言うような記事ですから。ね?
 
 
 


 
ともあれ、段階を踏んで説明しないといけないことなので、
ここにこうしてリストをつくってみました。
 
 
 
いじめを無くす視点を手に入れるために知るべきものリスト
 
① いじめられることには当然理由がある
② いじめられっこが可哀想な人とはかぎらない
③ いじめられる人はいじめられる人であり続ける
④ 他校でも不登校になった理由は優しい人たちのせい
⑤ 無知な善人に踊らされずに自分のための知恵を持て
 
この5ステップです。
それでははじめます。まずは一つめ。
 
 
 

 いじめに関して理解するべきこと

①いじめられることには当然理由がある 

これを説明しなきゃいけない時点でかなり詰んでます。

考えてもみてくださいよ。
だって……ゆづゆづですらいじめられていたのに?
フィギュアスケートの羽生弓弦さんのことです。
リアルシンジ君の降臨とかsyamuさんみたいなことを言う人たちが群がる
日本を代表するヒーローの一人ですね。
そんな人が理由もなくいじめられるわけないじゃないですか。
 
 
いじめられた人を見れば、ああこれはいじめられる人だなって
ちゃんとした経験を経てきた大人ならぜったいにわかります。
 
たとえばそれは愛着障害によるコミュニケーション障害ゆえかもしれないし、
自閉症スペクトラム障害による協調性の欠如かもしれない。
家庭環境の複雑なハーフゆえの劣等感からかもしれない。
当時人気絶頂だったアイドルがいじめの過去を吐露することが様式美であるように、
鼻につく上に世界観が違いすぎるからかもしれません。
ときに周囲に迎合できない哲学を持っている人かもしれない、ゆづゆづのように。
先輩に優しくされて良い気になったから同性から目をつけられたかもしれないですね?
いずれにせよ理由はあるんです。痛いと思われる理由は。
 
そして
理由をつきとめること=被害者の自己責任を追求するものだ
ということではありません。
他人は自分をうつす鏡なんですから、そこに被害者がいじめられた本質があります。
そこからおもちゃとして遊ばれることに発展するのは意味が違います。
 
そして、いじめられる人は、かならずどこかで一度はいじめられます。
 
だから、正確には100%いじめの再発防止はできるです。
しかしそれは一度目さえもいじめだと捉えないことでたどり着ける領域です。
 
 
 

②いじめられっこが可哀想な人とはかぎらない

 
 
そうやって人の愚かさばかり見る、キミの生き様に光明はあったかい?
 
仮にいじめの主犯格が複雑な家庭環境によって人格破綻を起こした人だったとしましょう。
 
でも、いじめというものは。
特定の集団社会の中で特定個人に攻撃を加えるということは。
その集団の中で自分の仲間がいたり立場があって安心感があるからできることなんですよ。
同じ集団の中に立場がないからいじめられる人はいじめられるんです。
だからやる側は、安心してそれを楽しみにすら変えられるんです。
会社の新人いびりとかってそういうことでしょ?
 
加害者の動機をいくら哀れんでも、権力者の方が強いんですよ。人格破綻者だろうとも
反撃されないからいじめられるっていうのは、そういうことなんです。
腕力の弱さや身体的ハンデや、あるいは気弱な性格だからでさえないんです。
 
いじめる側に回ることのできる人間は、
その集団のルールを牽引する力を持った人間です。
部活の最上級生がそうであるように。そしてそれは"悪"ではありません。
そしていじめられない子は、「その場」のルールを守っているということです。
 
 
しかし、自殺した子の親は娘を『規則を絶対守る生真面目な子だ』と評価していました。
『大会に出たり出なかったりし』て『練習を旅行で休む』ような子に。
これは後々響いてくる重要な事実です。
 
 
 
 

③いじめられる人はいじめられる人であり続ける

いじめは立場を持っている人によって行われます。
その場のルール・マナーを熟知し
その場でチームワークを確立している人間が起こすものです。
 
それに合流できない人間がいじめられるんです。
足並みを外してしまったから省かれるんです
失うもののない無敵の人が起こす通り魔とはちがう、
特定の集団のルールにしたがって行われるチームスポーツのようなものです。
あるいはボーンヘッドかましたことによるベンチ裏のペナルティです。
法的に見て正しいかどうかではなく、必ずルールを違反した人間にそれはふりかかります。
あるいは成長して美人になりすぎて、仲良しグループの美醜のルールを破るかもしれません。しかもそれを鼻にかけるように見えたかもしれません。そういう広義の話です。
 
 
そして、新しい環境に逃げるということは、
新しい環境のルール・マナーを熟知し
新しい環境のチームワークを確立している人間の中に飛び込むってことです。
 
 
 
ルールを破る人間は、その欠点をトレーニングで克服しなければまた戦犯になりかねません。
だから私はそのことも教えてあげずに「学校から逃げろ」とかいうやつ
完全にいじめられる側の奴の発想だなと思ってしまいます。
 
もちろん学校の卒業まで耐えたところでおんなじですよ。
その人はその人であるかぎり、仏教の教訓がそのように言っているように、
同じ試練と常にぶつかりつづけます
 
そして、たとえ逃げなくても、
何もしなければ同じことが起きます
 
いじめられるということは、ある意味で、
その場のルール・マナーその場のチームワークと接点を持ち続ける事でもあります。
いじめられている人間はそのことを肌でしっかりとかんじとっているはずです。
 
いじめを辛抱強く受け入れていれば、いつか集団に癒着することができるしれない。
そんなふうに思って、何もしないまま、いつか集団の末席につけることを願って
視野狭窄に陥ったまま、おもちゃにされる人もいます
 
ゆづゆづはそんなところの末席につく必要がなかったから
自分の意志でスケートリンクの上にいます。
 
 
このように、いじめ報道の感動ドラマ路線によって
「いじめ=不運」「巻き込まれた子=悲劇の人間」
を意味しはじめてきた現代、その言葉にすがることはあまりに危険です。
いじめにはこうした共通不変のメカニズムがあることを見過ごします。
 
 
 
 
 
 
 

④ 他校でも不登校になった理由は優しい人たちのせい

 
ここからが本番です。
 
昨今、「いじめ」という社会問題に対する環境整備や、
現場への問題意識徹底、ソーシャルワーク人員の配置は着々と進んできました。
そうして今や彼らはいじめという問題に対するホットラインを快く開いてくれます。
対応事例も増え、「いじめ」に対する転校措置もスムーズに行われるようになりました。今回の事件でもそういった対応が行われたように。
 
しかしステップ3で語ったように、ただ場を移すだけでは何も変わらないんです。
本人が集団のルールに対してどう向き合うかが問題なのですから。
そして、いじめの社会問題にたずさわる人々は、ただの他人ではなく、プロの身内です。
はじめから救い手として親身に接してくれる、他人ならざる善人です。
 
プロの善人だからこそ彼らは被害者がいじめられた理由を口にしません
あるいはそれを一緒に見つけようともしません、だって、その人が傷つくから
彼らはプロの身内、いじめ被害者すべての理解者ですそして次の被害者が待っています。
けっしてその人が抱える問題そのものを指摘する職種ではない。
 
優しい人に手を引いてもらって幸せな世界を目指すということは、「自分のふるまいはどこかおかしかったのかもしれない」という自覚を捨てる危険性もはらんでいます。
 
そして、本当の自分と向き合うためには、無責任な他人と向き合う必要があります。
味方を通じては自分のことは見えません。いじめっこ自身さえそうじゃないですか。
他人こそが自分をうつす鏡ですから。
 
 
 
 
たとえば。
性犯罪被害者が警察に「そんなふしだらな格好して歩いてるからだよ」と言われます。
事実です。
あるいはそんな格好をしてなくても「夜中に若い子があんな所歩いてるからだよ」。
それも事実です。
彼女はそういうことで狙われたのは事実です。かりに『不運』の部類が大きい犯罪だったとしても、不満に思って唾棄することは違います。
それでも露出の多い服装をつらぬくならばスタンガンを忍び持つのもいい。歩く道を変えるのもいいし、送り迎えを頼むのもいい、夜中そんな道を歩くのがだめならフェラーリをかっとばすのもいい。
何もせず同じ道で同じ格好で同じ被害にあったら、それが二度目であれば、後悔するのは自分です。なぜ自分が責任を追わなければいけないのかと嘆き続けていた時間で、「男の腕力でやりかえされたときの方策」など重要案件を少しは掘り下げられるはずですから。

あるいは「警察が何もしてくれなかった」と泣き言を言うかもしれません。そこに救いはないのに。「学校が何もしてくれない」からしてくれるのを待つのは違います。
 

しかも、いじめは不運では起きません
場のメカニズムによって発生する必然的事象です。
だからこそ、呻吟しながらちゃんと学習さえすれば次は避けられます
 
ただし。
ここに一つの問題があります。
 
いじめのきっかけはどうあれ様々な口実によって攻撃が行われる場合もあります。
たとえば「臭くなくても『臭い』と言う」ような悪口のための悪口があります。
 
だからこそ、
いじめられた理由は本人には届きがたい。
これがいじめられる人がいじめられ続けるもうひとつの理由です。
 
 
 
それでも、理由を知れば「いじめられっこ」は戦う力を持つことができる。
しかし理由をしらなければ、「いじめられっこ」は戦うことさえできない。
 
これがどれほど怖いことか例えて説明します。
 
 
 
あなたは実家暮らしの小学生です。
朝起きて顔を洗ってトーストの匂いのするダイニングに行きました。
そうしたら席につくまえに親に殴られました。
朝食の味はせず、親の顔色をうかがってもずっと睨まれるだけ。
話しかけても返ってくるのはふだんの素行についての重箱をつつくような不平不満。
でも学校からかえってきた夕飯では殴られることなく、ほっとして就寝しました。
でも次の朝の食卓でまた殴られました。
次の朝も、また次の朝も。
 
それでもダイニングに続く扉を開け続けられますか?
 
でもそれを見ていた神様が「おはようって言わないからだよ」と
しっかりと正確に教えてくれたら?
 
あなたはすくなくとも選ぶことができます。
自分を反省し、ダイニングの扉を開けて大きな声で「おはよう」と叫ぶか。
それとも、
ヒステリーの親を見限って、玄関から飛び出すか。
 
 
ただしここにもう一つの問題点があります。
この二つの選択肢では解決しない本人の問題があったら。
 
あなたはけっして意思疎通の上手な子ではない。いやそれどころか、
発声に困難を抱えており「おはよう」という言葉さえ上手にできないことが
生まれてからずっと親に忸怩たる思いを抱かせてきたかもしれない。
近所付き合いの中でママ友仲間に嘲るように指摘され、
それが劣等感になったことがきっかけで、今回の理不尽な対応に及んだのかもしれない。
大声で上げた「おはよう」という奇怪な絶叫は家庭内暴力を発展させるかもしれない。
 
それでも、それが身近な世間と衝突するトリガーならば伝えてあげるべきなんです。
伝えてもらえなければ、永遠に世間の壁にぶつかり続ける異人として生きることになります。
 
もちろん現実に神様はいません。
だから、その子は家庭内における育児の限界点を超えて、
児童相談所を通じて新しい家庭へと移されることになりました。
新しい家族は事情を知っているし、定期的な所員の訪問も約束されている。
だけど本人には「なぜ捨てられたのか」の詳細はもちろん伝えられていない。
伝えられないまま、自分が何かとすれ違っているという実感を持ったまま来てしまった。
 
朝起きて、顔を洗って、ダイニングのドアノブに手をかけて。
実の親に殴られ捨てられたのがなぜかもわからないまま、
その気持ちさえわからなかったのに何も知らない他人の待つ新しい世間へと届くドアノブを。
心の強さ程度で回せるものではないんですよ。
 
 
 
 
だから、いじめられた人間の多数は他人との接点をもちがたくなります。
あるいはそれは不登校という形をもって
 
自分がどんな人間かわからないから。
どうしていじめられたかわからないから。
でもなんとなくはわかっている、自分に原因はある
 
それでも周りが、「あなたは悪くない」「あなた以外の他人が悪い」と優しい言葉をかけるから、わけがわからないまま、この世界には不条理があるんだという結果しか残らない。
 
 
理由もなく虐げられるような世界で生きていきたいと思いますか?
 
 
 
 
いじめの理由をどう伝えるかは難しいし、
それを知ることは「集団」に属する人間にしかわからないものです。
重要なのは、いじめた人間は無関係の人間には軽く打ち明ける傾向があるということ。
「あいつ、自分のカンニングを俺になすりつけるようなことを言ったんだ」とかね。
鍵は「部外者」であり、「集団に属していた人間」だと思います。
 
冒頭の動画で、
「学校に行けない自分がキラい」と自殺した子は言っていました。 
「めんどくさい子」という文面もありましたね。
 
つまり、それが仮に悲劇に酔いながら出てきた言葉だったとしても、
この子は自分の非通常性に気付きかけていたことはまちがいないなんです。
 
自分を客観視しかけていたを今は感動ドラマの道具に仕立てられています。
「泣けるいじめドラマ」の主役として。
 
 
いずれにしろ冷静な部外者が本音をぶつけあわなければどうしようもない部分なんです。口をつぐんではいけない部分なんです。
だれもかれもが理解者を気取るのではなく、『他人』が必要とされています。
 
 
 
 
 
 
 

⑤ 無知な善人に踊らされず自分のための知恵を持て

 
いじめられる人は特別です。
ゆづゆづのように新しい集団を制圧するほどのカリスマ性と能力を持っているなら、正攻法の大逆転もあるでしょう。むろん無理ですね、平凡な特別な人には。
 
しかし、そうでなくとも、幸運な他人と出会って
自分がどういう人間なのかを知れたのであれば、対策がとれます。
そうして「特別な自分を知るからこそできること」が見えてきます。
 
 
選択することです。
 
 
もっとも理想的な選択は、
<足並みをそろえられるかぎりそろえるように努力しながら集団とつきあっていく>
ですね。それは自分の歩幅を知っていればできることです。
これでもう世間と衝突せずにうまくやれるなら幸運です。

あるいは
<自分を変えるために徹底努力する>
この例はラストに示そうと思います。
 
 
 
むずかしいのは、「今はそれはできないかもしれないな」と感じたとき。
「しばらくは自分なりの生き方でいくしかない」となったときです。
 
つまり、<主流をはずれることを覚悟する>となったときです。
 
 
 
 
 
 
"いじめは立場を持っている人によって行われる。
その場のルール・マナーを熟知し、
その場でチームワークを確立している人間が起こすものだ"と言いました。
 
同じように。
 
いじめの被害者がいじめられていても、学校に行かなくてはいけないのは
 
"家庭のルール・マナーに従い、
家庭でチームワークを確立しているから"です。
 
いじめられっこは
家庭というチームワークの末席として
自分で自分をいじめるんです。
 
遺書にもありましたよね?
「お父さんは学校に行ってほしかったよね」って。
 
 
 
 
わかりますか?
最終的にいじめの被害者が真に戦う相手は
家庭を優先して自分を迫害する自分です。
そして主流を外れるとき、その主流を決定していた
家庭の方針と戦わなければいけないときがくるということです。
 
 
しかし、そこにこそ希望はあります。
そこに打ち勝ちさえすれば、いじめは発生しません
 
そしてそれと戦う方法は、
自分がいじめられた理由をしっかりと知り、それにどこまで折り合いをつけて、
最後には家族の方針とどう戦うかってことなんです。
自殺は迫害の延長です。自分の頭で考えることをやめたから転校してもなお死を選んだんです。
 
部活のルールにてんで歩み寄れなかった娘さんを親御さんは
「生真面目に規則を守る子」
と評していました。それは家庭の集団のルールを守っていたという意味でしょう。
そして辛いそぶりを見せないという形で対話を放棄した。
だから自殺しました。 
 
 
 
今回の報道でわかりきっているいじめの原因がもう一つあります。
ですよ。
練習を休ませて旅行に連れて行ったのは親です。
 
 
この件で、経験則的に見えるものがあります。
親はもちろん生計をたてられる大人だから自分勝手を自力でカバーできる。
ただ、それに子どもを巻き込むことはバランス感覚が欠如していることに間違いないんです。
 
スーパーの行列を都合良く離れて、あとから戻ってきて『入れてよ』なんて、
よほどの立場がないとできないことを平気でやってるんです。
極端な話じゃない。りゅうちぇるみたいな甘えはやめろ。
 
すくなくともこういった態度を日頃からとる親のもとで育ったのなら
とらざるをえない生活をさせられていたのなら、
自殺した子もバランス感覚が欠如していた可能性は多いにあります。
そしておそらくこれは間違っていません。
 
大会に出たり出なかったりして、部活で立場を持つことは絶対に無理です。
どうしてそこにいるんだという異物であることに普通は気付きます。
 
自分の都合でふるまって、都合が悪くなれば周囲に足並みそろえてほしい。
そういう他者への無意識な過剰期待と常習依存の傾向があったのかもいれない。
親が周囲と連携するバランス能力が高くないことは、間違いのなかったはずでしょう。
そんな親を見ていたのなら、子どももそうである可能性は高いのです。
 
あるいは見方を変えるべきかもしれない。
 
「周りが助けてくれなかった」という遺書に見る他者依存も
「ちゃんと私たちの相談を重く受け止めてくれて対処してくれたらよかった」
という責任の見いだし方も、
「深く悩んで1人で抱え込んでいたと言ってくれなかったのか」と一つ屋根の下で不登校であったはずの娘への感想を実の親が述べたことも、
いじめ問題の解決にのりだしていた学校の両者和解の提案を打ち切ったことも、
縁を切って転校したはずの学校に責任追及の一報を叩き込んだことさえも。
 
たとえば旅行の時、部活を休もうというときになったとき、 
あるいは、親と子どもは学校の件について話しあわなかったんでしょうか?
それとも、話し合ってそれでいいやというのが親子の結論だった?
いままでも出たり出なかったりしていたから、それが当たり前の家庭だったから?
家庭の外のことは無視することが当たり前だったのか
 
 
親に悩みを打ち明けない、そんなそぶりも見せなかったと言うくらいに対話しなかったのは、親を傷つけたくなかったからなのか、それとも、言葉にできなかったのか、あるいは、言っても無駄だと思ったのか、そこまではまったく予想はできません。バランス感覚の変な家庭ですから、娘さんがどこまでそれを自覚できていたのかは不明です。
 
 
結局、わざわざ方針にあわない集団のなか
我が儘をつらぬいたこと、つらぬき続けていたことは事実です。
 
でもこれ自体の真偽はいいんです。
この仮定を理由に話をすすめるつもりもありませんから。
仮に親に問題があろうがなかろうが、出る結論は何も変わりません。
 
 
 
 
 
 
たとえば、自殺した子は、
いじめられて不登校だけど塾に通って受験するような子がいること
は知っていたんでしょうか。
そうしてその子が立派に大学に通っていることも…

学校には行きたいといっていましたが、
学校に行かなくていい道とくらべてどうだったんでしょうか?
今となってはわかりません。
 
塾通いの子は今はそういう生き方しかできない」と覚悟した上でやっていました。
 
ひとりよがりで楽できる方に逃げて逃げつづけて、その先に運良く優しい人がいたら、
その人に依存する。そんなことをくりかえしているのではメンヘラと同じです。
 
しかし、さまざまな知識をもって世間を知り、進路を見比べれば、
いつか自分なりの進路があるということも見えてくるはずなんです。
選択するというのはそういうことです。
「自分を変えない」まして「変えられない」のなら
知恵をつけなければ他人に迷惑をかけるだけです。
 
 
 
……
 
そりゃ大半の親は井戸端会議で当たり前のように
経歴をのべられるような子が欲しいに決まってます。
それを快く受け入れていれば、親をがっかりさせることはない。
 
でも、そんなふうに思って、何もしないまま、ずっと末席についていられることを願って、視野狭窄に陥ったまま、理想の子どものままでいられるかどうか
それができるかどうかはその子ども次第です。
 
子ども自身ができないと感じたら
たったひとりで親とさえ戦いをはじめるべきなんです。
そのために知恵をつけるべきなんです、自分をいじめる前に。
 
頭が悪いからいじめられるという言い方はあまりにも残酷ですが、
頭が悪いままでは自分をいじめることしかできなくなる
人間がいるのも事実です。視野を広げる必要があります。
他人には自分の感性は奇怪すぎて伝わらないかもしれないから。
 
規則を絶対守る子がいた、実際にそれが今回死んだ子です。
もしもその規則が間違っていたら自分で判断するしかないんですよ?
世間と乖離するその規則は、社会全体という集団のルールを破る可能性さえある。
 
私は、自殺した子が、転校後でさえも、
LINEの通知を確認し続けていたことも気になります。
ステータスメッセージに悪口を書かれてそれを見て落ち込んだってことは、
友達一覧に自分をいじめた子たちを残し続けていたってことですか?
いくらなんでも集団への接し方が不自然過ぎる。
 
それに、親に向けた遺書ではじめて部活が理由だったと述べられたということは、それなら今まではなぜいじめられたのかだれもわからなかったということですよね?
 
問題解決に学校が動いて、当事者が謝罪して、転校して、本人はその間もずーーーっと黙っていた。
それをして「 だれもたすけてくれなかったな。」 という思いを抱えながら。
まさか、何も言わないで気持ちを察してくれると思っていた?
学校が怖い怖いといじめられた理由と向きあうことなく怯えたまま、不登校を理解して欲しい理解して欲しいと居もしないもしないだれかに願いを託しながら。
 
これほど他人任せな思考停止私は「悲しい」という感情を持つことはできません。
 
 
 
 
ああ、ちなみに身体をデカくしたり武術をならってもたぶん無駄です。
孤独なままでは「補導」や「退学」といった、社会集団からの逸脱まで覚悟しなければ発揮されませんから。
むしろ道を外すどころか、それでも「何も変わらなかった」かもしれません。相手によっては殴り合うことで集団の一員に認められるかもしれませんが。
しかしやはり知恵こそが確実な武器です。
 
学校にうまく通えそうにないなら、保健室の遅刻と早退をくりかえすようなスタイルでもいい。おかしな生活でも、自分の性格さえ見定めていれば耐えられます
自分に合った生き方とは、どこかの集団に肩代わりしてもらうことではなく、自分の案配で適したグループに近づいたり離れたりをくりかえし続けるということなんです。
そのバランス感覚を養えなければその人はいつかまた排除されます。
知恵さえあればその正しい指南役を見つけることだってできます。
 
 
追い詰められた子どもにはそんなこと無理?
いじめポルノにわめいてるだけのお前が何してくれんだよ。自分でなんとかすんだよ。
 
 
 
……もちろん
自分なりの生き方をいつまでも他人から許してもらえると思ってる
甘えたやつはまたいつかかならずいじめられますけどね。
 
世間と自分の距離感を知れ。ってことです。
 
また集団に合流するとき、
自分を律せるような年相応の知恵を得られていなければ…
ただの年をくっただけのおおきなこどものできあがりです。
社会人の自殺が報道されない理由はそれもありますよ、もちろんね。
 
 
自分の世間とのバランスを認識していれば、適した集団を選ぶことができる。
虚弱体質の肥満老人がスポーツインストラクターを志すのは自己認識が甘いのは当然。
 
同じように……まさかこんなことになるなんて思っていなかったにしろ、親のバランス感覚をつらぬくならば部活より休みの都合が付く民間のクラブが一番合っていたのは本当なのですから。
 
 
「いやぁ、うち夏休みは遊びにいきたいから、部活よりクラブの方がいいんだよね」
と自分の意見を言える子なら攻撃されたりなんかしませんでしたよ。
 
 
 
 
 

最後に。
三者ができることは、
「泣けるいじめ」を消費するだけではなく、
いじめられる理由を冷静にケーススタディしてあげることです。
そして、関係者たちが事後に授けられる知恵をもっとつけること。
 
不運=いじめなのだとすれば、その原因と理由をはっきりさせたとき、
いじめはその人の人生のテーマにすがたかたちを変えることができるはずです。
 
 
 
 


かっこいい……。













[閑話]
いじめられた子の逃げ場を作ろうってことに関してホームスクールのような制度が日本にあればなって思ってる人はいると思います。それ、実は日本では通信教育の制度をうまく使えば擬似的に実行できるんですよ。そういうシステムつくってみたいですねぇ。 

[閑話2]
私は前の「児童書」の記事で言及したようになにかとキッズとの接点の多い人生です。
野獣先輩のアイコンを使って深夜までLINEをするような子たちの実態は
言われるまでもなくわかっています。そこで罵詈雑言が飛び交っていることさえも。
ぶっちゃけそれを見て私も爆笑してますけどね。
それで一言いえることがあれば、LINEは集団生活の延長に過ぎないので、
そこに原因はなにひとつありませんよ。